アヴェスターにはこう書いている?
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奥村哲 『中国の現代史 戦争と社会主義』(その1)

社会主義体制とは、相対的に後進的な国における、「帝国主義の侵略」に対処する総力戦の態勢であり、中国の場合、日本の侵略が決定的な転換点になった。まさしく、日本の侵略があとに遺したものだったのである。(p.6)


これは本書の結論ないし中心となる主張である。私も概ね同意見である。

いわゆる「社会主義」は冷戦時代の東側諸国で採用された体制だが、これらの国々は、世界経済の中で半周辺的だと位置づけることができる。それは経済的にも軍事的にも優位な位置にある「中核」からのある種の(経済的なものを含めた)「侵略」に対し、自国のエリア内のリソースを政治的に動員することによって防衛しようとするものであった。

ウォーラーステインの理論の枠組みでは経済的な面が強調されるのに対し、本書の特色は軍事的な面、即ち、国防という目的がさらに上位にあったことを強調する点である。中国の場合、重工業の開発が、敵に侵略された場合に、容易に侵略され敵の戦力になってしまいかねない沿海部ではなく、経済的な効率が落ちる内陸部に重点が置かれていたことが、国防がより上位の目的であったことの認識根拠となっている。

社会主義や共産主義の理論・理念と現実の体制は大きく乖離したものであったが、イデオロギーに引きずられて的外れの議論が多く繰り返されてきた中にあって、本書の見方はそうした「体制正当化のレトリック」に引きずられていない点で評価されるべきであろう。なお、私としては本書の見方はかなり当然のものに思えるのだが、意外とこうした見方をしている本は少ないように思われる。

ちなみに、本書の別の箇所ではほぼ同じことを次のように書いている。

 私の結論を先に言えば、社会主義体制とは、工業化が相対的に遅れた地域における、ファシズムないし全体主義国の侵略を受けたことを歴史的経験とした、ファシズム以上に徹底して全体主義的な国家の防衛態勢であり、総力戦の態勢である、ということである。(p.41)





 しかし社会的所有というのは、平たく言えば、「みんなのもの」ということであった。そのみんなには、自分ももちろん含まれる。とすれば、問題は法律上あるいは形式上でどうなっているかではなく、実質の上で、自分が働く土地や機械などに対して、自分も含めた個々人の意志が反映されるかどうかである。「みんなのもの」とは、みんなの意志に任されるもの、ということであろう。もちろん、個々人の考え方や利害はさまざまであり、しばしば対立する。だから、「みんなの意志に任される」というのは、考え方や利害の違いが民主主義によって調整されて、社会の合意が得られることが、前提になるはずである。そう考えるなら、中国の国有・公有は、きわめて高度の民主主義を前提として、はじめて「みんなのもの」といえるであろう。しかし残念ながら、改革開放以前の中国では、初歩的な民主主義さえ欠如し、完全な共産党による一党独裁であった。国や公的集団の意志決定も、すべて共産党が独占していた。このような状況のもとでの国有と公有は、単に「共産党のもの」でしかなく、決して「みんなのもの」ではない。ただ、共産党がみんな(全人民)の意志を代表しているという、なんの制度的保証もない建前が、「全人民的所有」という虚構の看板を支えているだけである。(p.28)


これもほぼ同意見であるが、意外とこのような素直な見方を示す人は少ないように思われる。

強いて付け加えるならば、「民主的な意思決定」は「デモクラシーの制度」を整えてもできるとは限らないし、「デモクラシーの制度」がなくても一時的には「民主的な意思決定」ができる場合があり、これらを同一視してはならないということは付け加えなければならないだろう。そして、デモクラシーの体制があっても、間接デモクラシーの場合、「みんなのもの」という度合いはかなり低く、実質的に「エリート(選ばれた人たち)のもの」である度合いが高いということ。つまり、純粋に「みんなのもの」という状態は、多数の人間からなる共同体では完全に実現されることはないということである。

いずれにせよ、「共産党がみんな(全人民)の意志を代表しているという、なんの制度的保証もない建前が、「全人民的所有」という虚構の看板を支えている」というのは間違いない。中国国内に、このことに明確に気づく人が増えるべきであると考える。



 では、五ヵ年計画とは何だったのか。実際には、経済を五ヵ年でそこまで発展させたいという、願望でしかなかった。(p.30)


またまた同意見である。

ただ、これは「計画経済」を標榜していた諸政府を笑ってばかりもいられない。日本の景気判断や年金の保険料や給付水準を決める際に使われてきて人口推計なども、かなりの程度、政府の願望を反映して表明されており、それに沿って政策が作られているからであって、日本の有権者も他国を笑える状態では全くないのである。


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