FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

福井憲彦 編『新版 世界各国史12 フランス』(その3)

「カール」という名前はフランク人の命名リストにはない名前である。アングロ・サクソン語の「ケアール」、すなわち「自由人」からきていると推測される。カールはピピン二世が、マーストリヒトを根城とする豪族の娘アルパイダと内縁関係を結んで生まれた子供であるが、この名前がピピンがアルパイダ一族となぜ結びついたか、その理由を明かしている。この一族は北海からライン川、マース川流域に影響力をもっており、ピピン二世はその海上・河川交易活動に野心を燃やしていたのである。次男のグリモアルドを海民フリーセン人の王ラドボードの娘と縁組みさせているのも、同じ理由によるのである。シャルルマーニュにつながるカロリング王権のルーツが、このように海上交易的な色彩に染められていた事実はあまり注意をはらわれてこなかったが、大事な点である
 カール・マルテルは730年代、ほとんど毎年のように南フランスやプロヴァンスに遠征したが、732年のトゥールとポワチエのあいだでのイスラーム騎馬軍との戦いは、その端緒といえる。南部社会にとって、彼の軍事遠征がもたらした惨禍は神が振り下ろした「鉄槌(マルテル)」にほかならず、イスラーム教徒の破壊を遥かにこえていた。この地方の古代的な名残は、たび重なる人的・物的被害により完全に息の根をとめられたのである。ラングドック地方は、カールとその息子ピピンの遠征によってはじめてフランク人の国土となった。(p.75-76)



前段のカロリング家が海上交易的な活動に関心を示していたことは、私にとっては新しい見方であった。フランス北部の地域が、ある程度の経済力を持ち得るようになった理由はこうした見方によってこそ、うまく説明できると思われる

北部の海と河川での交易(これは陸と海の両方から地中海まで繋がっていたものと推測される)を通して、力をつけた北部の勢力が――地中海沿岸ではありながら、恐らくはアルプスという陸路での切断があるがゆえに、他の地中海沿岸地域よりは力が劣っていた――南仏の地域を攻略することが出来た、と見ることができそうである。

現在を基準にしてしまうと「同じフランス」であると見えてしまうが、北部のフランク人と南部のラングドック地方の人々とは「同胞」でも何でもなく、フランク人は「侵略者」にすぎない、ということは踏まえておくべきであろう。これと同じパターンの侵略は13世紀のカタリ派の征伐(アルビジョア十字軍)の際にも見られたようである。結局、現在の南仏はなかなか北部の人々の支配下に落ち着くことはなかったらしいと推察される。(第二帝政期の言語地図も、この傍証となる。)

 王の支配力の弱体化はアンリ一世(在位1031~60)の治世にさらに深刻となった。その支配はトゥール、アラスの西にあるモントルイユ、そしてシャロン・シュル・マルヌの三点を結ぶ線に囲まれた範囲に限られ、その息子フィリップ一世(在位1060~1108)の時代には、サンリス-パリ-オルレアンの軸線とオワーズ川流域に縮小したのであった。だが、こうした傾向はフィリップの時代に底を打つ。つぎのルイ六世(在位1108~37)は、有能な顧問であるサン・ドニ修道院長シュジェの助言のもとに、封建的主従関係を政治的序列づけの原理として存分に活用して、権威を回復し、その子のルイ七世(在位1137~80)はシュジェの導きのもと、ノルマンディ大公領を領有するプランタジネット朝イングランド王ヘンリ二世を1151年にパリに呼びよせ、フランス王の下臣として忠誠を誓わせるのに成功した。こうしてフィリップ二世尊厳王(オーギュスト)(在位1180~1223)の時代には、王権の威光はゆるぎなき権力としてのそれを回復したのである。(p.84)


この文章は、11世紀前半の王権の衰退と11世紀後半以降13世紀までの王権の強化を示している。しかし、王の名前だけで見ても、何がこの反転を可能にしたのかは見えてこない。基本的には12世紀の大開墾や11世紀頃からの東方との交易の拡大という状況が背景としてあり、より具体的には以下のような状況の背後にあるものでもある。

 フィリップの治世は、ロワール、セーヌ、ソンムなどの基幹河川を利用した水運・交易の活況の恩恵にも浴した。関税や取引税収入が直接税制度を知らないこの時代にあっては、王庫の貴重な収入源である。彼はまた都市共同体が領主から自立してコミューンを組織する動きを支えた。都市は王権に定期金や軍事力を提供することが期待されたのである
 初期カペーの王たちは好んでオルレアン地方に滞在したが、フィリップはパリのシテ島にある宮殿に住まうことが多くなった。パリは北西フランスとシャンパーニュ大市および南部との商業との交差点に位置していて、商業上の要衝でもあった。(p.94)


このように農業生産力と交易の増大から王権は他の貴族よりも多くの利益を得たのであり、また、都市化の進展により自治都市などが成立したことは、貴族たちを牽制する勢力が増えたことを意味し、王権にとって相対的に有利な状況であったのである。

先の引用文に現れたサン・ドニ修道院長シュジェが「都市の建築」としてのゴシック建築を完成させた人物であることは偶然ではない。

ちなみに、シャンパーニュの大市に関して一言コメントしたい。

この世紀(引用者注;12世紀)の後半になって地中海地方と北海とをつなぐ街道に位置するという地の利をいかして、シャンパーニュ諸都市は活動範囲を拡大し、シャンパーニュ伯も大市での取引からもたらされる利益を財源としてあてこんだのである。伯は商人を安全護送(ソフ・コンデュイ)制度で保護し、ラニー、バール・シュル・ローブ、プロヴァン、トロワの四都市の開催期日を調整し、一年をひとつのサイクルに組み上げたのであった。(p.113-114)



このようにあの有名なシャンパーニュ大市は「自由競争」によって拡大・繁栄したのではなく、政治的な保護の下で繁栄したということである。自由主義のイデオロギーによれば、政治権力による市場への介入は(必ず)悪とみなされるが、それは正しくないのである

(つづく)
スポンサーサイト




テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/36-96019c24
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)