アヴェスターにはこう書いている?
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和田一雄 『中国サル学紀行 黄山に暮らす』

 浮渓の小学校の生徒一人は、一カ月に二日間、先生に食事を提供する約束である。新明家は息子と娘の二人がやっかいになっているので、一カ月に四日間先生を食事にむかえなければならない。かくして先生は一年中、浮渓の家々を行脚して歩くことになる。その結果、先生は浮渓の出来事を細大もらさず聞くことができ、生徒の家庭内の事情を十二分に理解できることになる。先生の家庭訪問を年中やっているわけだ。・・・(中略)・・・。
 ・・・(中略)・・・。食事行脚の原因は給料の安さにあった。・・・(中略)・・・。
 1987年十月に浮渓に来るとなつかしい彼女の姿はなく、四十代の女性が寨西から東に三キロメートル離れた湯口鎮に去った。湯口鎮に新しくできた、逍遥賓館のスタッフの方が収入がよいので、そこに移ったのだ。・・・(中略)・・・。
 浮渓は他の安徽省内と同じく1985年に人民公社を解体し、浮渓隊としての資金を持たないので、公的なものへの投資能力はほとんどない。したがって小学校の先生の給料を補助する財源はないのである。人民公社の閉鎖は別の問題をひき起こしたのである。(p.32-34)


80年代後半の中国の農村の教育現場の状況。



日本人は魚食民族だといわれるほど頻繁に、多様な料理法で魚を食べる。しかし、ごく最近、昭和の初めまでは鮮魚の消費は沿岸域に限定され、がちがちに塩漬けされた魚が内陸で祝い事のときのみに食べられるだけであった。それが冷蔵庫の普及、保冷車の整備拡大につれて鮮魚消費が爆発的に拡大した。(p.65-66)


「伝統的な日本食」の代表と見なされるような「刺身」や「寿司」なども、やはり「創られた伝統」であると言えよう。



 研究面でもう一つ大きな問題は外国からの学術雑誌や書籍がごく少ないことである。安徽大学ではサルも含めた哺乳類関係の雑誌は皆無だし、最近出版の書籍はないに等しい。中国科学院北京動物研究所と同院昆明動物研究所は別格で、かなりの数の外国専門誌と書籍がそなえられているが、他の研究機関へのコピーサービスは行っていない。安徽大学も含めたこれらの機関にある外国雑誌は、大部分中国国内で復刻された、いわゆる海賊版である。日本でも問題になったことはあったが、公立機関に堂々と並べられたことはなかっただろう。日本関係では代表的な自然科学関係の雑誌が多くコピーされている。外国書籍は新華書店内に内部用として別の売場をもうけ、外国人はしめ出して販売されているが、辞書、外国語学習用教科書、自然科学の教科書が多い。外貨の乏しい中国のやむを得ない方策である。中国政府は1992年に国際出版条約と中米知識産権条約に加盟したので、このような事態はしだいに姿を消すことになるだろう。(p.197-198)


本書は80年代後半から90年代前半にかけての中国での見聞記である。当時の中国の状況が垣間見えて興味深い。公立の研究機関でまで海賊版が出回っているというのはなかなかすごいものがある。

しかし、今は中国は世界有数の外貨保有高のある国である。短期間にすさまじい変化があったことを痛感する。



 物の豊富さと情報の自由さの面で、日本は中国に較べて優れているといえるかもしれないし、その点で生活し易いだろう。政治・経済の面から管理されている情況は、日本の方が中国に較べて社会的にはるかに整備されている、言い換えると人間の生き方からみると制限されているということになるだろう。
 中国の文化大革命は国内戦ともいえるほどすさまじいものだった。日本では起こり得ないエネルギーの奔騰であったのだが、一つの原因は社会の隅々まで管理されておらず、したがって不満が蓄積可能な社会的隙間があることを示したとも思えるのだ。中国の一つの省は広さや人口の規模からみて一つの国といえるわけで、それを北京の中央政府がすべて掌握するのは容易なことではない。それを行なうため、中国語千年の官僚組織をフル回転するのだが、簡単なことではない。その掌握度が、くらしやすさと逆比例の関係にあるのではないかと思う。それは暮らしやすさが浮渓、合肥、上海、または北京と息苦しさを増すことに示されているからである。(p.237-238)


しばしば「一党独裁」と形容され、息苦しいイメージで捉えられがちな中国だが、著者の捉えるところでは、日本の方が管理社会としての度合いが強く、中国には官の力が及ばない領域が大きいというのは興味深い。

もっとも、問題をもう少し明確に切り分けなければ、このような問題は論じることが難しい話であり、この形のままの問題設定では、単なる印象論に陥るのがオチであろう。単なる滞在記での問題提起としてはここまでで良いだろうが、社会科学的な分析を施すには問題の再設定が必要である。



 当初は理想に近い形で始まった共同研究は延長に際して、いささか雲行きが変わり、どうやって研究を発展させるかではなく、いかにたくさんの研究費を日本側に出させるかの方向に傾斜した。儲けるはずの金額を私が出すことになったのはこれまでで初めての経験で、彼の給料分を私がまかなうのならと素直に了解したのだが、とまどったことだった。
 私の場合はまだいい方で、ある例ではジープ二台と、五年間の調査費として数千万円を約束させられたのがあった。こうなると、研究ではなく、動物調査を一つの商品として外国との共同研究を考えているといわれてもしかたない。ジャイアントパンダ研究では数百万ドルの費用がWWFなどの基金から支出されているが、これは成立の経過から違うので比較できない。ふつうの共同研究は、いかにして研究を発展させるかという視点から計画されるべきものである。
 中国側のこのような態度の原因の一つは、共同研究成立に関して中国側研究者の発言力が弱いことにある。
研究の意味や実情にうとい行政が決定権を握っていては、採用に当たって判断の基準が金額の多寡に流れてしまうのはしかたのないところである。研究者は研究遂行に関して決定権をもつことが必要で、行政からの相対的独立が望まれる。(p.254)


日本の研究者は今後、かつての中国の研究者のような状況に変わっていくのではないかと私は見ている。直接的な権限が行政に握られるというより、補助金という形で誘導されるのではないだろうかと見る。私はここで国立大学の独立行政法人化を念頭に置いているのだが、その弊害を先取りした事例として興味深い。

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