アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

村上哲見 『中国の都城4 蘇州・杭州物語 天に天堂 地に蘇杭』

 紀元三世紀、漢が衰えたあとの魏と呉と蜀の対立は、小説の『三国志』(『三国演義』)の物語として名高いが、三国鼎立とはいっても、基本図式としては黄河流域の、いわゆる中原を支配する魏に対し、長江下流の江南地方を占めた呉が対抗する南北の対立であって、蜀はその間に介在する第三勢力だったのである。つまり江南地方が黄河流域の中原と対抗できるほどに成長したのであり、これよりのちには、しばしばこの南北対立という情況が起こることになる。(p.44-45)


適切な図式であると思われる。



 この五代十国の乱世の半世紀は、杭州にとっては都市として一段と発展した時期である。覇権争いの焦点となった中原から遠いという地理的位置が幸いし、この地域は十国のひとつ、呉越と称する王国が支配して比較的安定した状態が続き、杭州はこの王国の首都として栄えた。呉越王の銭氏は、もとより王室の繁栄、財源の確保のためではあるが、杭州の治水に充分に心を砕いたのである。(p.165)


杭州に限らず、江南地方はこうした華北・中原の混乱期にこそ、経済的な基盤を固めていったようである。政治的な力を持っていた華北地方が疲弊している間に、相対的な平和を享受している地域が経済発展したわけである。



 女真族の金は、開封を占領し、二帝を捕えてはみたものの、広大な華北の農業地帯を恒常的に支配する自信はなかった。強力な騎馬兵団によって軍事的に勝利を得たとしても、農民を恒常的に支配するシステムについては無知であるし、だいいち広大な中国大陸に浸透するだけの人口がない。このあたりは、1937年から8年間にわたって、中国大陸のかなりな部分を占拠した日本の場合と類似関係がないではない。
 こういうときに侵略者が思いつくのは、かいらい政権である。金は、はじめは張邦昌の楚、のちには劉豫の斉という国をつくって華北を治めさせ、吸い上げるものは吸い上げようとするが、どちらもうまく行かなかった。日本が華北政務委員会や南京国民政府をあやつろうとして失敗したのとよく似ている。(p.194、本文傍点部は下線を付した。)


なかなか興味深い対比である。

火器が発達する以前は遊牧民が軍事的に力を持っていたが、それ以後は海に面した地域の方が相対的なパワーが増してきた。こうした傾向は16世紀ないし18世紀頃から世界的に見られたが、19世紀に決定的になった。かつては北方遊牧民が行ったことを20世紀には日本が行ったというのは、そうした世界システム的な変動局面を反映しているように思われる。



 翌年、宋と金との間に講和条約が成立した。それは、黄河と長江の中間の淮河を境界とするのは、いわば現状維持であるからしかたがないとしても、宋の天子は金の天子に対して臣下の礼をとり、かつ「歳貢」、毎年銀二十五万両と絹二十五万匹をさし出すという、屈辱的な不平等条約であった。しかしいかに屈辱的な条件であったとしても、とにかく講和が成立したので、秦檜はこのあとも、亡くなるまで十数年のあいだ権力を独占し、栄華をほしいままにした。
 後世になると、岳飛は愛国の烈士、民族の英雄として尊敬を集めるいっぽう、秦檜は奸智にたけた売国奴として憎まれ役となる。今も杭州の岳墳にみられる光景が、そのことを如実に示している。
 しかしながら、感情をぬきにして平静に考えてみると、秦檜の人物はともかくとして、このとき彼が平和をとり戻した功績はやはり大きい。このあと、十三世紀の終わり近くになってモンゴル族が侵入してくるまで、百数十年の間というものは、時おり戦端が再開されたことはあるものの、おおむねは平和が続いた。その間に江南の経済的発展はおおいに進み、臨時首都となった臨安すなわち杭州をはじめ、江南の諸都市は空前の繁栄を享受することになった。
 条約は不平等にちがいないが、それが当時の宋と金との軍事力の差の結果であるとすれば、必ずしも秦檜の責任ではない。天子が金帝に対して臣と称するなどは、庶民にとってはどうでもよいことであるし、歳貢、毎年大量の銀と絹をさし出す負担はもちろん小さくないが、平和を金で買ったと考えれば、高いか安いかは一概にはいえない。平和でさえあれば、宋と金との間の貿易、商人同士の取り引きは盛んにおこなわれ、それはつねに茶などを中心に宋の輸出超過であったから、大きい目で見ればとり上げられたものを貿易でとり返すことになっていたのである。(p.199)


この評価について、ほぼ同意見である。

私も去年、杭州にある岳飛廟に行ってきたが、岳飛の何が偉いのかがよくわからなかった。岳飛が「民族の英雄」として称揚されているのは、アヘン戦争以後の中国の状況について、中国では諸外国から被害を受けたという考え方が強く広まっており、「外敵(非『中華民族』)」に対して徹底抗戦するという姿が「愛国的」なものとされてきたことを反映しているにすぎないというのが私の認識である。




 考えてみると、ヨーロッパで印刷、出版が発展するのは十五世紀半ば、グーテンベルク以後のことであるし、日本では法隆寺に残存する百万塔の無垢浄光大陀羅尼経が、八世紀後半に印刷されたことが確かめられることを自慢にしているが、これは一枚の刷り物にすぎず、技術的には初歩的段階に属する。書物の出版ということになると、寺院における仏典の出版などは十一世紀あたりからはじまってはいるが、町の本屋の営業出版ということになると、江戸時代に入ってから、十七世紀以後にさかんになるので、十一、二世紀の宋代における営業的出版は、世界的にみて異常に早く発展したといわねばならず、世界における出版産業の元祖といえよう。そして杭州、臨安はその一大中心地だったのである。(p.233)


ヨーロッパでも一般の庶民にまで出版の成果が広まったのはもう少し後だろう。宋代にどの程度の所得階層まで出版の成果を享受したのかは分からないが、かなり早い時期に、ある程度広い層に向けた出版が行われたということは事実だろう。

これも中国の経済力や文化水準が世界的に見て高かったことを示しているように思われる。

スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/349-4849c6f3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)