萱野稔人 「なぜ私はサヨクなのか」 より。
つまり、たんに生活が不安定になるだけでなく、外国人の労働者と競合しなくてはならないような周辺的(マージナル)な立場に突き落とされてしまうことへの反発や恐怖が、「右」的な主体をつくりあげているのだ。 だから、いまの右翼的なものは、とりわけナショナル・アイデンティティの主張としてあらわれることになる。たとえば、周辺国の労働者と競合しなくてはならなくなった人たちが、外国人とおなじ周辺的な立場に自分もおかれていることをなんとか否認しようとして、いかに日本人である自分たちが外国人労働者とは異なった存在であり、いかに外国人は自分たちより劣った存在であるのか、ということを証明しようとする、といったように。 あるいはまた、とるに足りない仕事ばかりさせられ、誰にでも取り替えがきくような存在として(つまり社会的に居てもいなくてもいいような存在として)あつかわれるようになってしまった人たちが、社会のなかで自分たちの存在を認めてもらうために、「日本人である」というアイデンティティにしがみついて自己主張をはじめる、といったことも起こってくる。 「日本人はかつてこんなにヒドイことをした」というメッセージをどうしても伴ってしまう戦争責任問題に多くの人がヒステリックに反発してしまうのは、彼らがそれだけ日本人というアイデンティティにしがみつかなければならないような状況があるからだ。彼らにとって、日本人というアイデンティティはみずからの存在を社会のなかで認めてもらい自己主張するためのよすがなのであり、戦争責任の追及はそのよすがを汚すものだと感じられてしまうのである。(p.55-56)
日本や欧米諸国における右翼的な人々の心理状態を描き出す理念型としてはかなり納得できる。
(ただ、中国などでもナショナリズムは高まっているが、それは微妙に位置づけが異なると思われる。国際的な経済において比較的劣位な立場におかれた国におけるナショナリズムは、強力な外国からの収奪を恐れる心理に基づいて発動される面が強調されるべきであろう。日本においても「反米」の感情を持つナショナリズムが右派のみならずリベラルにも見られるが、それはむしろこうしたタイプのナショナリズムだと言える。)
タイトルにある問いに対する筆者の回答は概ね次のような感じであった。
社会をトータル(総体的)に、かつリアルに認識しようとする態度こそ、左翼の本分だと私は思う。これはいいかえるなら、左翼は人間の意識とか精神といったものから問題をたてない、ということだ。社会というのは人間の意識を中心として組み立てられているのではない。逆に、人間の意識のあり方もそれによって左右されてしまうような外的な要因によって社会は条件づけられている。 ・・・(中略)・・・。 ただしこうした立場は、ある禁欲的な態度を左翼に要請せずにはおかない。つまり、あくまでも左翼は人びとの社会的生活を条件づけるものに介入するだけで、それぞれの人の生き方や実存の問題にはけっして介入しない、という態度である。 ・・・(中略)・・・。 生き方や実存の問題は左翼のあずかりしらぬことであり、左翼は社会を条件づけるものに介入するという立場を保持し、けっして越権行為はしないこと。この禁欲的な態度こそが、逆に、左翼をふところの深い存在にする。 左翼であることは、だから、そんなに大げさなことじゃない。「いまの社会が悪くなっているのは人びとのモラルが低下したからだ」と説教をたれるヤツほどうっとうしい存在はない。社会の変革をめざしながらも、人にモラルや道徳をおしつけたり、実存の問題をとやかくいったりしないところが左翼のよさなのだ。(p.61-63)
私が以前書いた「右翼的言説」についての論考において「「右翼的言説」には、論理的推論、分析、事実(認識)、客観性、批判といった一連のものが欠如している」と述べ、「左翼的言説」はそれをひっくり返したものだと述べたが、それと通じるものがある。
だから、本稿で述べられている見解には共感する部分は結構ある。特に精神論を否定している点には共感する。
ただ、上記の認識態度は「左翼」と呼ぶようなものだろうか?というのが一つの問題である。むしろ、上記のような態度は「科学」において要請されるものではないか。確かに、現在の日本において科学的に社会について考察すれば『左翼』の政治的な立場(弱者への配慮を伴う社会システムの変革の主張や平和主義的な国際関係の構築という主張など)になることはほぼ間違いないと私は思う。
しかし、それをもって科学的な態度を左翼的な態度として同一化することには違和感がある。科学的な態度が『左翼』的なスタンスと共存する状況は普遍的だとは言えないからである。
もう一つは、右翼とか左翼という概念を「人」に当てはめているフシがあるというか、問い自体そのように設定されている点である。上記のような「科学的」態度を常に崩すことがない人がいるとすれば、その人は「左翼」だと言えるかもしれないが、「左翼」だとされている人でも常に上記のような態度でいるわけではないことを考えれば、私は「個々の言動ごと」にそれを区分する方が妥当ではないかと考えている。人に対して当てはめる場合、それは「国民性」などと同じような「不変のレッテル」になりやすいが、個々の言動に当てはめる場合、「個別的な吟味を要する理念型」として機能する傾向があると思われるからである。だから、上でリンクした論考も「右翼について」ではなく「右翼的言説について」述べているのである。
さらに、萱野氏は上記のような科学的な態度を保持する「左翼」であることは「大げさなことじゃない」という。しかし、それはある意味ではある種の「知的エリート社会」の中の常識でしかないのではないか。確かに一度身に着けてしまえば何ということはない態度ではあるが、こうした科学的な態度で社会を分析するということは自然に放っておけばできるようなものではない。むしろ、萱野氏の言う「左翼」の姿勢は、学問disciplineによる訓練disciplineを必要とする――上記の「禁欲的」な態度にも見られるが――規律あるdisciplinary態度である。
だから、教育水準が低い者や、いわゆる「理系」の教育を受けた人の方が社会について発言する際には「右寄り」の発言をしやすいのである。彼らは社会という対象について「科学的」に分析するためのdisciplineを受けて鍛えられていないからである。 テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌
|