アヴェスターにはこう書いている?
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「超左翼マガジン ロスジェネ 創刊号」(その1)
浅尾大輔と赤木智弘の対談「ぼくらの希望は「戦争」か「連帯」か」 より

ある意味でプロに百人のアマチュアがガーッと文句が言えるようになってしまっている状況においてすごくいろんなものが相対化されていった。ただ、唯一お金だけは相対化されないもので、その結果、お金の価値がどんどんあがっていってしまっているような気がしますね。だから、お金を持っている人の方が偉い、と。その他の価値は全部相対化されてしまってお金だけが何か突出してみえているような状況だと思いますね。(p.17)


これは赤木智弘の発言。

お金の価値が他のものに比べて上がっているという見方はそれほど間違っていない。ただ、他のものが相対化されたから金の力が強くなっているわけではないだろう。逆である。ブレトン・ウッズ体制の下では金の力が抑制されていたものが、70年代、80年代、90年代と時間と共に順を追って抑制が解除されてきた――金の抑制が一つ外れるたびに金を持つものの力は高まり、次の抑制を解除させる権力を得ることができたのである!――ために、流動性が高いものほど優位な状況になっているのである。それによって流動性そのものである貨幣が最高の権力を持つようになったわけである。

戯画的なまでに単純化して描き出してみる。

通貨間の交換が自由でないときは、その通貨が流通している範囲内(つまり国内)で金は巡ろうとする。国境を越えるものは極端に言えば商品(生産物)だけである。そのときにだけ金は国境を越えて移動する。

フロート制が導入された。各通貨の交換は自由になっていった。通貨が強い国としては、通貨が弱い国の労働力を使うことができれば生産が安上がりになる。工場を労働力が安い国に作るか、安い労働力を呼び寄せて物を作らせればよい。こうして多国籍企業が増えたり、移民が増えた(マグレブからフランスへ、トルコからドイツへ、ロシアからイスラエルへ等々)。

多国籍企業やその投資家にとっては、各国の法律・規制が邪魔になる。規制の自由化、その実態は多国籍企業や投資家のホームとなる国に起源を有する企業・投資家にとって有利な「規制の変更」という要求が多国籍企業・投資家の側から出てくる。90年代に日本で盛んに叫ばれた「グローバル・スタンダード」への適応とは、こうした欧米諸国に有利な制度への「規制の変更」であった。こうして多国籍企業はグローバル企業となり、投資家はグローバルな投資家となっていった。いわゆるグローバリゼーションと名付けられている現象は70年代から胎動してきた動きの一部に過ぎない。

この前後で東西の冷戦が終結し、安い労働力とあらたな市場が爆発的に増えたことが、この動きを爆発的に加速させた。政治的なタガが外れたために、企業の側の行動の自由度が一挙に拡大したからである。繰り返しになるが、グローバリゼーションと呼ばれた現象もこうした加速があったからこそ新しく名付けられたのだったが、その本質は70年代にはすでに始まっていたのである。

ここまで規制が崩れてくると、投資家>経営者>労働者という力関係はより力の差が開いていくことになった。その流れの中に非正規雇用の増大などによるワーキングプアというものも位置づくのである。(こうした経過の中で見れば、非正規雇用の労働者がバラバラに分断されてきたのも当然の流れだと容易に理解できるだろう。)その上、こうしたグローバル資本の力の増大は各国政府の財政にも大きな負担を課している。累進課税がしにくくなるからである。それによって福祉の削減が各国で行われてきたのだった。日本の財政赤字の増大や福祉の削減はその中でもかなり顕著なもののひとつだと言える。

赤木が指摘するような社会のさまざまな現象(男女関係、職業、言論など)の相対化という現象には、それぞれに独自の要因があるだろうが、金を持っているかということが金を手に入れることができるチャンスに結びついているために、社会の階層分化が進み、それが固定化していく流れの中で、社会の階層内でそれに適した生活様式が生じてきたものと捉えれば、上記の説明と整合的であろうし、そうした面は一つの規定要因として存在すると見てよいのではないだろうか。

ブレトン・ウッズ体制に戻ることは不可能である。あの規制は永続可能なものではないからだ。しかし、資本移動の自由化に対して何らかの抑制的なルールが必要となるところまで来ているように思われるのである。

赤木にはこうした見えないものを見ながら現象を意味づけるパースペクティブがない。自分が置かれた状況から、その状況の中で培われてきた彼のルサンチマンに基づいて発言しているだけであるように思われる。そうした言説が、社会の中で抑圧されたり、希望の持てない人々から共感を受けているだけであり、そうした人々のガス抜きにはなっても未来へのビジョンを示し得るようなものを彼はもっていないように思われる。

その意味で、彼が次のような考えを述べているのは傲慢だとしか私には思えない。

だから全体の認識を変えるためにはどこかで変えなくちゃいけなくって、まあ自分の役目はそっちなのかなと。(p.18)


彼自身がパースペクティブを欠いているのに何を言っているのかという感じである。単に世の中に渦巻いているネガティブな感情の共感を得たために時代の寵児のように扱われているだけであり、彼の言説は「大衆迎合的」とも言えるのであって、人々の認識を「変える」ようなものではない。

もっとも、こうした「認識の転換」という発想自体が私からすると90年代的であり、すでに古いと感じられる。必要なのは「認識の転換」ではなく「システムの作動の転換」だからである。そして、「作動の転換」は「認識の転換」に先行されなければならないわけではなく、むしろ逆であることも多いのである。



次は浅尾の発言。

小選挙区制度でゼロかイチかという枠組みが作られたせいで、政治が変わるリアルさがなくなった。それが「失われた10年」の序章だった気がします。あのときから、左翼はメディアと国民から、途方もない「力」を求められてきた。(p.19)


やや後付の認識ではあるものの、的を射ている部分もある。特に、小選挙区制度の下では左翼は途方もない「力」を求められるという点には納得する。

ただ、小選挙区制度で政治が変わるリアルさがなくなったということが実感されるようになったのは、むしろ最近のことであろう。選挙の結果、小政党がどんどん小さくなる、自民党があれほど腐っていても小政党より遥かに有利な状況にあることが、数々の選挙の結果から明らかになってきてからそれが誰の目にも明白になってきている、というのが現状ではないだろうか。



次の赤木の発言は、発言を向ける対象はずれているが論理は正しいと思う。

 正社員や労働組合が、貧困層ひとりに月10万ぐらいださないかなという気がするんですけれどもね。・・・(中略)・・・。
 いわゆる富裕層でなくても、お金をもっている人って、いっぱいいると思うんですよ。だから、富裕層もそうした責任を負うんだけれども、普通の生活をしている正社員の人も責任を負っていると自覚してくれないと、やっぱり単純に富裕層と正規労働層の言い合い、責任押し付け合いだけになっちゃうと感じるんですよね。(p.20-21)



これは増税論者である私の意見と同じである。しかし、こうした再配分をするには「正社員」の自発的な善意や努力に期待しても無駄である。このことを行うためにこそ税は存在するとも言えるのだ。だから、こうした税制改正の要望は、政界やこうした改正を阻んでいるところの財界に向けて発信されなければならないというのが私見である。

赤木は、ルサンチマンに囚われて目の前の「正社員」に怒りの矛先を向けている点で誤っているし、彼の言説が容易に取り上げられるのは、政治家や財界・富裕層にとっては利用しやすいからであるとも私は考えている。こうした人々にとって赤木の言説はかなり都合が良いものだからである。自分達には攻撃の矛先が向かわないために、貧困層のガス抜きにはなるものの問題解決ができる論理ではないからである。

左翼には、赤木のような質の低い言説からはそろそろ卒業してもらいたいものだ。


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