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アヴェスターにはこう書いている?
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福井憲彦 編『新版 世界各国史12 フランス史』

一世紀後半には、大プリニウスの『博物誌』のなかで、ナルボネンシスは「属州というよりはむしろイタリアである」と評されている。(p.42)


これに対してガリア北部は異なっていた。

ここに描かれたガリア人は、早くからローマ化したナルボネンシス州のガリア人とははなはだ異なっている。どちらも豊かで富裕であっても、ローマ人の目からすれば、ナルボネンシス出身の貴族は洗練されて品位があるが、「長髪のガリア」出身の貴族は粗野であり鼻持ちならないとでもいわんばかりである。(p.44)



19世紀後半の第二帝政期の言語地図(p.342)を見ても、南部(特にラングドック地方など)はフランス語を話せる人がほとんどいないことがわかる。このことからも南北フランスの間では、人的な交流も少なく、統治状況も異なっていたと考えられる。

ただし、フランスを単純に南北二元論で区切ってよいわけではない。北西のブルターニュや東部の地域などもパリ周辺とは異なる文化的状況にあったようであり、現在の「フランス」の領域の内部を見ても地域的な多様性があることは間違いない。ただ、南部は地中海世界としての共通性があるのに対し、「それ以外の地域」は非地中海世界として区分して把握することは可能であると考える。

最近の研究成果が示すところでは、「フランク」というエスニックな集団はもとより存在せず、三世紀ころにシャマーウィ、ブルクテリ、シャットゥアリ、サリー、アムスウァリといった名前のライン川下流地帯にいた部族が同盟してできた一種の政治集団として成立したとされている。(p.57)



これに似たようなことは「フランス人」や「フランク」だけでなく、「日本人」や「倭人」にもいえるはずである。

王国の首都がトレドに遷ったのちも、ラングドックは西ゴート王国の領土にとどまった。この地方の文化的個性は、地中海世界との交渉のほかにピピン短身王によるフランク王国への併合まで続く西ゴート支配のうちに形成された要素に多くをおうている。そうしたもののひとつとして、ナルボンヌをはじめとする都市を拠点にしたユダヤ人の旺盛な経済的・文化的活動があげられるであろう。(p.60)



なるほど。ラングドック地方は西ゴート王国(の一部)だったわけだ。しかし、昔、世界史で習ったが今一歩ピンとこないな。次の旅でラングドック地方と言えばトゥールーズやモワサックに行くことを予定しているが、何か関連するようなものがないか、注意してみることにしよう。

 西ローマ帝国の崩壊(476年)とフランク人による支配は、ガリアの文化環境にそれほど大きな変動をもたらさなかったといいきってよいであろう。もしローマ文化の変化をいうならば、それは帝国の瓦解の一世紀も前から始まっていたのである
 四世紀を境に書物は巻物の巻子本(かんすぼん)から、冊子形式の書冊本(コーデクス)にかたちを変え、また男の衣装はゆったりとして行動の優雅さが要求される寛衣(トガ)から、活動的な筒袖の服が好まれるようになっていた。なによりもキリスト教の公認そして国教化により、内面世界を支える価値体系に根本的な変化が起こったのであり、それは社会のもっとも奥深いところからの文化変容を生み出さずにはすまなかったのである。したがって、476年の西ローマ帝国の解体のころのガリアの文化状況は、すでに六世紀のそれと根本において変わりなく、ただ時間を追うに従い、四世紀の初発の状態からの懸隔が徐々にはっきりするようになる変化の因子を内在させていたといえよう。(p.62)



大まかには支持できる説であるし、4~6世紀のガリアの社会状況(文化状況というより社会状況)を観察する上での準拠枠として使用できる理念型である。

ガリアの社会の状況を見ると、明らかに2世紀頃にピークを迎え、その後、急速にその状態が失われていくように見える。そのような流れを念頭においても、既に4世紀にはガリアは衰退しており、3~4世紀の間に相当の社会状況や文化的な変容があったと考えておかしくない。そして、反映していない状況で生活できるような体勢が持続していたはずである。

このような状況と上の理念型は整合的である。ただし、キリスト教の扱いについては私としては違和感を覚える。なぜなら、4世紀や6世紀のガリアではそれほどキリスト教は浸透していないと見るべきだと考えているからである。

もし、この時代に既にキリスト教が十分に浸透していたならば、12世紀のロマネスク教会の時代にもまだキリスト教化が完全ではなかったことと整合的でない。(純粋に論理的には、絶対にありえないとはいえないが。)

ローマで国教化されたことで、宗教儀礼などが大きく変化したであろうことや、特に知識人層や支配層にキリスト教が受け入れられたことは確かだろう。その意味でハイカルチャーに対しては根本的な変化が起こりえたと推測する。

しかし、下層の民衆の社会に根本的な変化が起きたとするのは、やや行きすぎであるように思われる。もちろん、その後の行政官僚組織としての教会による支配などによって、中長期的には根本的な変化を蒙ったのは確かだろうが、それでも、あまりキリスト教を強調しすぎるのは安易な説明であると見える。

(つづく)
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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