アヴェスターにはこう書いている?
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大山典宏 『生活保護vsワーキングプア 若者に広がる貧困』(その3)

 幼少の頃にきちんと大人に関わってもらえなかった子どもたちは、一様に自己表現が苦手です。「どうしてこんなことをしたの?」と問いかけても、自分の気持ちを言葉にして表現することができません。自分の気持ちを聞いてもらった経験がないため、どうしていいかわからないのです。そんなときは、いくつかの選択肢を示して、「一番、自分の気持ちに近いものはどれか」と聞くと、子どもたちも選ぶことができます。(p.170)


こうした方法が必要なのは子どもに限ったことではないだろう。誘導尋問的になる危険はあるが、自分の考えを表現できない人にとってはこうした選択肢の提示からはじめる事は有効だと思われる。

大人に関わってもらえなかった子どもは自己表現が苦手であるという見解も確かにそうだろうと思う。生活保護を受給する家庭には、経済的な問題が家庭内の人間関係にも影響していることが多いようだ。こうした子どもが将来社会に出て職業に就いた場合、安定的に働いていけるだろうか?傾向としては、すぐ辞める傾向が強いのではなかろうか?会社の人間とうまく付き合っていけない可能性が高いと私は見る。その結果、職場を転々とするのではないか。そのうち、うまく仕事が見つからないことが生じると、生活保護に転落するのではないか。稼働能力も扶養義務の履行も資産の活用もできないから、こういう人は生活保護の「水際作戦」の障壁を通過することができる。かくして貧困は再生産される。

以上は、ある程度は実際の貧困層の姿を考慮に入れた上で想像したものだが、こうした「日常生活を営む能力」までもが貧困の問題と関連があると考えなければならない。基本は経済力であるが、家庭を取り巻く社会的なネットワークが存在するかどうかは大きな意味があるのではないだろうか。

(かつては地縁や血縁に基づくネットワークが小さな家庭の外部に張りめぐらされていただろうし、家族のサイズ自体が大きいために家族内のネットワーク密度が高かったものと想像できる。核家族化が進んできた中では、そうしたゲマインシャフト的な社会関係を補完するネットワークが必要になると思われる。)



 現在の生活保護法では、福祉事務所に扶養義務者への金銭請求権を認めていません。家庭裁判所への調停を申し立てる権限は与えられているものの、第一義的には当事者である利用者が行うべきものとされ、実際の運用のなかではあまり活用されていないのです。(p.186)


生活保護法を読んでみて思うのは、かなり個人の生活に対する介入の度合いが小さく、強制力が弱いということである。ある意味ではかなり人権に配慮された法律だといえる。その点は評価して良いと思う。

しかし、同時に、現場ではどうやら、そうした介入の権限が十分ではないことが問題と感じられるようだ。そうであるがゆえに、次々と押し寄せる申請者に対して福祉事務所側はある種の恐怖感を抱いている。

私としては、ある種の危険性があるとは思うが、福祉事務所にもう少し個人の生活に介入する権限を与えてよいのではないかと思う。ただし、その権限を行使するためには幾つかのステップを踏まない限りできないようにしておくなどの制限を加えてだが。そうでなければ、その権限が濫用される恐れがあるからである。

思うに、介入しない制度というものは、受給者が、ある程度の問題解決能力があることを前提している。しかし、受給者すべてがそうした能力を持っているとは限らないし、個人の資質の問題というよりも、状況として受給者が独自に行動を起こせない、または受給者が行動することでさらに問題が複雑化してしまう場合も考えられる。そうした場合には、ある程度の強制力を使用することはあながち悪いとは言い切れない。



 息子のつき合っている友だちを見ていると、いきなり就職などできそうには見えません。大人になったら、まず仕事をしなくちゃいけないのだよという、そこから始めなくちゃいけないのです。
 生活保護を利用している家庭の子どもたちは、親御さんが仕事をしている姿を見ていません。
仕事をすることが当たり前ではないのです。(p.188)


これは「その1」のエントリーでも書かれていた「生活保護ニートの連鎖」の話とリンクしている。

生活保護受給世帯で育ってきた子どもにとっては、働くということは自明ではないという指摘は、ある意味、衝撃的である。そこから教えなければならない、それもある程度の年齢になってから。それはかなり骨が折れる事だと思われる。

私は一つの極論として、次のような意見を聞いたことがある。「生活保護受給者は強制的に専用の施設に収容し、そこで強制労働でもさせればいい」というのである。極端な意見でありとてもじゃないが賛同することはできないのだが、一面の真理を突いている部分があるとも言える。リベラリズムの立場から言えば、本人の意思を尊重すべきだということになるのだろうが、本人の主観的な意思を尊重することが最善であるとは限らない。過度の自由主義は原理主義なのである。

先の意見と同様、私もこの点に関してはステップを踏んだ上で強制転居や強制労働をさせることができるような規定があっていけないとは思わない。ただし、何度も言うが、それを適用するためには福祉事務所側に相応の手順を踏ませる必要がある。

こうした事例は、ある種の「社会への適応障害」が認められるという意味では、それは精神障害と近いと捉えることができる。統合失調症の治療の方法として「共同作業所」などでの作業をするというのがあるそうだが、それに近いイメージである。

例えば、稼働能力があるにも関わらず求職活動を一定期間(例えば1年間)行ったにも関わらず全く成果がないような場合――例えば、1週間に1つの面接を受けるとすると50回以上落ちたことになり、これくらい落ち続けるということは一般の会社で採用されにくいということを意味すると解する――や、福祉事務所からの指導・指示違反がたびたび見られるような場合、こうした作業所で軽作業を行わせることができるという規定があっても悪くはない。ここでの軽作業に対してごく僅かな報酬を与えて生活の改善につなげさせるわけである。(もちろん、この「軽作業」によって作られたものは、社会に還元されて使われるべきであり、そうなればこれは一種の公共事業である。)もちろん、求職活動のために必要な休みは取ることができるなどの配慮も必要だろう。「外の世界」で働けたほうが良いのだから。

リベラルな価値観の持ち主から見ると、ややこれは危険なものに見えるかもしれないが、リベラリズムの「不介入」や「他人の迷惑にならない限り何をしても良い」という原理は、一見それらしく見えながら実は具体的な適用の段になると必ずしも適用できない、ある種の無内容さを暴露されることになるものである。そうした意味では私はリベラリズムに対して批判的な立場である。(ネオコンや保守主義にはそれ以上に批判的であるつもりだが。)ある行為を行った後にそれを正当化する際のロジックとしてはリベラリズムは「美しい」ものではあるかもしれないが、「まさに行為を行うときの指針」としては無内容であるがゆえに非力なのである。リベラルな価値観の持ち主には、そうしたリベラリズムの問題点(無内容性)をよく理解した上で、それを乗り越える理論を打ち立ててもらいたいものである。

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