アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

花崎皋平 『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』

 松浦武四郎が、「北海道」という名称の名づけ親であるというのは、別にまちがいではないが、正確な事実はこうである。彼は、明治二年(1869年)七月七日、「道名の義につき意見書」を政府に提出している。そのなかで彼は、日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道の六つを原案としている。そのうちの北加伊道と海北道とを折衷したようなかたちで「北海道」が正式名称にえらばれるのだが、彼が北加伊道を案とした理由は、アイヌ民族が自分たちの国をカイと呼び、同胞相互にカイノー、またはアイノーと呼びあってきたからというところにあった。北加伊道が北海道に変えられたとき、そこにこめられた大事な意味も消された。その名づけを産んだ流れは、武四郎一人の力や思いではどうにもならない滔々たる濁流となって、この近代百年を押し通してきているものであった。武四郎は、明治に入るとすぐその流れの外に身を置いてしまう。(p.11)


北海道の名の由来がこうしたところにあったとは知らなかった。アイノーという語とアイヌという語は恐らく関係があるのだろうが、そうならHOKKAIDOのAIはアイヌのアイとも関係があることになりそうだ。



 明治の初め、開拓に入った人びとの苦労話に必ず出てくるきまり文句に、人跡未踏の原始の森林を拓き、不毛の地を沃地に変え、というものがある。いまにつづく開拓のイデオロギーである。それに比べて、ここで武四郎が開陳しているこの地の見方は、なんとちがうことか。「菜根植え百穀を種に」すること、つまり「開拓」よりも、「洪徳を植種し」、アイヌの「人員漫延」を計れという考え方の方が、どれほど人間的であることか。(p.119)


私は生まれも育ちも北海道だが、確かに「北海道の開拓」というと、ここで述べられているような決まり文句のイメージがどこかにある。しかし、北海道の地にはもともとアイヌの人びとが住んでおり、彼らなりの社会を形成していたのだから、こうした「開拓のイデオロギー」はかなりの程度虚構であるというほかない。



 私には、この歴史的事件にまつわる忘れがたい記憶がある。それは1983年の夏のことであった。オーストラリアから、一人のアボリジニーの反核運動家が北海道を訪れた。彼は、オーストラリア政府と先進国多国籍企業とがウラン鉱開発を進め、そのため先住民族の聖地が冒されていることを訴える目的で、ヨーロッパをまわって日本にやってきたのだが、北海道へは、おなじ先住民族で、同化を強いられて苦しんできたアイヌとの出会いをつよく希望して訪れたのであった。
 私は、一夜、夜と数人のアイヌの人びととの対話の仲だちをつとめた。彼は、その席で自分たちの歴史をこう語りはじめた。「1788年に、イギリスから千名余の流刑囚をのせた船が、私たちの地に着きました。それまで、私たちアボリジニー諸族は、平和な暮しをたのしんでいたのですが、その白人船の到来以来、私たちは狩猟の標的とさえされるようなひどい扱いを受け、人口は減ってゆきました。その年から、私たちの不幸の歴史は始まったのです。
 これを聞いたアイヌは、「その翌年の1789年は、私たちの先祖が、和人の暴虐に抵抗して立ち上った最後の組織的蜂起の年だったんですよ。私たちの抑圧の歴史はさらに昔からのものだったんですよ。でも、近現代の歴史はおたがいにほんとに似かよっていますねえ」と涙を流した。アボリジニーの彼も、おたがいの歴史の共通性の「発見」にいっそう心をひらき、両者抱きあって涙にくれたのである。
 おそらく、こうした被差別、被侵略の歴史の同時性は、被差別民族同士が歴史を語りあってみれば、まだまだいくらでも見いだされることだろう。そうした歴史の共有にもとづく被差別、被抑圧民族の復権の営みこそ、これからの民衆の世界史の核心となるべきではないか。(p.190-191)


同じような時期にこうした侵略的な抑圧が起こったことは偶然ではないだろう。19世紀は「移民の世紀」などと呼ばれることがあるが、それは世界システムがグローバルな規模にまで広がったことを受けて、労働力の再編が起こったことを意味する。その直前の時代にあったことは、世界システムがグローバルな規模にまで拡大するという過程があったのであり、上記のような「被侵略の歴史の同時性」は、その際に地球上の各地で起こったことを表わしていると位置づけることができる。

繰り返すと、19世紀までは西ヨーロッパに端を発した世界システムは地理的な拡大が可能な時代であり、この地理的な拡大の際に侵略的な抑圧が各地で起こった。19世紀には地理的な拡大が不可能になったので、世界全体の内部で労働力の再編が必要になったため大量の移民が生まれた。

引用文の最後の部分で筆者が述べている見解は、80年代頃から日本でも学会で広まり始めた社会史を重視する歴史観と軌を一にしている。本書は1988年に出されたものだから、時代的にも完全に一致している。なお、花崎氏の考え方は、基本的に90年代に左派的な思想陣営の一部で流行したポストコロニアル・スタディーズの典型的なものだと言える。

私の立場を言えば、ポストコロニアルは存在しないよりはあった方がよい思想ではあるとは考えているが、それは現状を変革していく理論ではなく、積極的なビジョンを示すことができる思想だとも思えないため、多少距離を置いている。もちろん、ナショナリズムや帝国主義やネオリベラリズムなどと比べれば遥かに親和的ではあるが。

なお、ポストコロニアリズムが積極的なビジョンを語れない原因は、この思想が観察者の立場から記述を行う後向きのものであることにあり、その中でさらに侵略や抑圧に対する抵抗という観点から描かれるために局所的な現象を記述の対象に選んだ上での理論構成にならざるをえないことにある。反省的な理論の場合は大局的な見方をする方が見取り図としての役割を果たせる。行動や変革の理論は局所から出発してよいと思うが、変革をなしうるシステムの作動を捉えた上で、それをプログラム化しなければならない。



 「チャランケのときは、相手にひとつだけ逃げ道をのこしておいてやるもんだ。」
 つまり百パーセント追いつめてしまうような、相手の名誉を損じない負かせ方をせよ、ということである。なんと私たちはこういう知恵から遠ざかってきたことか。(p.301)


チャランケというのは談判とか論争という意味のアイヌ語だそうだ。

確かに論争のときに逃げ道を残してやるというのは、良好な関係を続けながら論争したい場合には必要な知恵かもしれない。

スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/317-dff75d19
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)