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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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河本英夫 『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』

感情は、使わないと消えてしまう。怒ること、怒鳴ることを控えて、まあまあと他人や事態を理解することばかりに努めていると、感情は消えてなくなってしまう。特に40歳以上になると、ことあるごとに努力して感情を動かすようにしないと、感情が消えてなくなってしまうのである。あえて感情的にならなければならない時期がある。現在、用いている感情の種類を数え上げてみてほしい。(p.20、本文でゴシック体の箇所は下線を付した。以下同様。)


確かにこうした傾向はあるかもしれない。よく10代や20代前半くらいの人について「このくらいの年頃に人たちは箸が転がっただけでも面白い」なんてことを言っていた上司がいたが、それと軌を一にするものだ。河本の構想では、感情は一つのシステムを形成しているから、それが年齢と共に作動の様式を変えていくと理解されているのだろう。理由は十分明らかではないが、経験的には納得できる見解である。



 そこで物に異なる言葉を貼り付けてみる。家を洞窟と呼び、ブロック塀をネコ渡りと呼び、庭木をエゾと呼び、電柱をハゲと呼び、トイレをハコと呼び、ボールをまりと呼んでみる。実にたわいもない言葉の置き換えだが、これでもずいぶんと生活の彩りは変わる。
 生活のなかに、通常の日常言語以上に似つかわしく、イメージ喚起力のある自分だけの語を一つだけでもつくってみる。例えばトイレに行くことは、ハコするであり、トイレから出ることは、ハコ出るであり、誰かが既にトイレを占拠している場合は、ハコ詰まりであり、トイレ付き車両は、ハコ場であり、便通の具合はハコ調であり、八分目固さですべて出きれば、ハコ快調であり、それがうまくいかなければ、ハコもたれである。およそこんな調子である。一つだけでもよいので、日常語のなかに自分だけの言葉を導入してみる。その言葉は応用可能性があり、次々と類縁語が発明でき、また、他の人にそれを使わなくともよいが、なんとなくわかるような語を一つ導入してみるのである。(p.22-23)


なかなか面白い。やってみる価値はありそうだ。



説明がどんどんと細っていく場合には深追いはしない。これは問いを立てるさいの基本である。説明が細るさいには、問いの設定が狭過ぎたからだとあっさりとその問いを脇に置くほうがよい。実は狭い問いに拘泥してしまって、どうにも前に進めなくなってしまう人はとても多い。(p.45-46)


確かに基本である。ただ、河本も言うように、狭い問いに拘泥して先に進めなくなる人が多いのは確かだ。学問的ないし哲学的な問題設定というよりも、日常の生活や仕事などでもそれは言える。



 見方を教わって、それに合わせて焦点を絞ってみる。これは焦点的意識であり、言い換えれば「注目すること」(既に見えているものをよく見る)である。ところが自分で何かを見いだすさいには、焦点的意識とは別のものが必要になる。寅彦は、この注意の能力が抜群だった。学校教育では、観察にさいして、注意ではなく、焦点的意識、すなわち知覚を教えている。最短距離で物事を修得するために、それが最も都合がよいからである。だがそれがよい教育かどうかは別問題である。新たなものを見いだすことは、知覚ではなく、注意が向くかどうかに依存している。(p.192-193)


知的な能力の展開についてみると、かなり多くの人が20代後半くらいに最大の伸びを示し、その後、30代に入って以降は成長率が停滞する傾向があると私はみているのだが、この経験的な観察は、ここで河本が述べている区別と関係があるのかもしれない。

20代のうちはさまざまなパラダイム(ものの見方)を修得するだけでも成長しているような感覚を感じるが、「普通の人」(凡人)はその要素が強く、ある程度の視点を学び終えてしまうと、それ以降、成長が感じられなくなる。

それに対して、注意の能力に長けた人は、パラダイムの修得だけでなく、次々と新しいものを見いだして発展していく力が強いので、その後も伸びていく傾向が強い。そして、大きな成果として開化することは40代以降になってからが多いが、それはこうした発展の能力を使っていた人が到達することが多いように思われる。しかし、そうした人は稀だから全体の傾向としては前者の人々の動きが主流として観察されるのではなかろうか。



感情が注意の働きを抑制したり、過度に促進したりする。それによって現実の幅がとても狭くなってしまうことが多々ある。(p.208)


確かにその通りである。最近のトピックで言えば、死刑に関する議論や税に関する議論などで、私と意見が対立する人々は明らかにこの傾向が見られる。

いずれも、一番目に付きやすいところだけを見て、それによって感情が動き出し、いわば認知が歪んでしまっているのである。私はWertfreiheitを身につける訓練を行う中で、そうした部分をコントロールするようにしてきたつもりであり、その点では多少のアドバンテージがあると自負している。



 観点や視点によって世界が捉えられているとするのは、まだ認識論の世界である。その場合は、見方を変えれば世界が変わるというような認識の枠が前面に出てくる。新たな見方を学び、新たな観点で物事を捉える仕方を学ぶという作業は、学習の基本に組み込まれているが、明日元に戻すこともでき、明後日再度新たな視点に切り換えてもよい。視点の切り替えができるというのは、認識論の大前提であり、そのとき正しい視点や観点を学習することが課題になる。(p.220)


このことはかつて認識論にかなり入れ込んでいた私が、河本から学んだ極めて大きな問題である。



 行為の特質は、常に選択肢に直面することである。(p.232)


河本の構想ではこの「選択肢」が極めて重要である。世界は必然ではない。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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