アヴェスターにはこう書いている?
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河本英夫 『メタモルフォーゼ オートポイエーシスの核心』(その2)

オートポイエーシスの外形には、以上の五段階が含まれている。第一に生成プロセスの継続と物質の産出の同時進行であり、第二に生成プロセスの進行とそれに関与する物質そのものの区別であり、第三に生成プロセスの連鎖がプロセスのどこかに回帰することをつうじて、プロセスの継続と閉域の形成が同時に進行することであり、第四に産出的なプロセスの継続と、産出された要素からの構造の形成であり、第五にプロセスの継続と産出された物質による感知の機能の出現である。こうした外形の規定は少々入り組んでいるものの、経験に一切の無理を課すことなく行うことができる。それが外形ということの特徴でもある。オートポイエーシスの外形とは、五段階の二重作動の複合体である。外形としてみれば、オートポイエーシスはたんに二重作動の複合体にすぎず、どちらかと言えば平明で単純な姿をしている。二重作動の複合体の細部は、実験的にいくらでも詰めることができ、また細かな争点を競って細部を明確にすることもできる。またさらに高次の二重作動形態は、派生的にいくらでも導くことができる。それはすべて経験科学の課題である。ただそれだけのことである。(p.35-36)


簡潔なまとめとなっている箇所なので抜粋。



 第四の段階でプロセスの集合体であるシステムの構造が明確に区分されて出現していた。プロセスの集合は、通常機能や働きと呼ばれ、物質の集合は定常的な関係があるとき構造と呼ばれる。システムの境界は、このためつねに二重化する。脳の境界と活動する意識の境界は異なり、細胞の活動の境界と細胞膜とは異なり、視覚の境界と眼の境界は異なる。機能的自己(Sich)と構造的自己(Selbst)はつねに位相差を含む。機能はみずからで位相空間を形成する。そのため通常の空間内にみることができない。思考という機能が見えないだけではなく、消化や循環という機能も見えない。これに対して構造は構造の要素の占める空間内に判別できる。胃や心臓は空間内に判別できる。また胃潰瘍で胃を切り取った人は、ひととき胃が構造的空白となるが、周辺の器官を作り変えて胃の代用品を作り出していく。つまり構造は組替え可能である。とすると機能から組み立てていくシステム論が成立することがわかる。ルーマンがこの回路を採用し、支払いを単位とする経済システム、コミュニケーションを単位とする社会システム等の機能システム全般を導入し、システム論を普遍化することができた。(p.41-42)


機能と構造の関係を、二重作動によって明確に説明しており、注目に値する箇所。



 各システムは差異化を行う機能をもち、固有の二分法コードをもつ。法システムは合法/不法のに分法コードをもち、科学システムは真/偽、経済システムは支払い/不払い、宗教システムは超越/内在というようなコードをもつ。これらはシステムの作動を組織化し、システムそのものを固有化する。つまり特定の機能をもつシステムとして形成され、維持される。コードというのは、伝統的には体系に固有のカテゴリーと呼ばれていたものであり、ここではそれを二分法の概念対として設定している。これによってシステムがそれとして成立するさいの前提が浮かび上がる。たとえば観念論のシステムに固有のコードは、超越論的/経験的であり、個々の言明をこのコードに合わせて区分することで観念論が組織化され形成される。観念論がそれとして成立するための境界に当たるのがこの二分法コードである。(p.71-72)


個々のシステムに設定されたコードにはやや異論もあるが、考え方自体は興味深いものがある。この二分法がシステムの内と外を区分する働きをするわけだ。ただ、その際、この区分はシステムの構造として識別できるものとは別個のものである点には要注意だろうが。



 少し常識を働かせてみる。科学的な言明は、既存の業績と無矛盾で、新たな知見をもたらすものであれば、真偽とは独立に産出され維持される。言明の産出の条件は、既存の成果と接続可能で、新たな知見が含まれていることである。これはいまだ真偽とは独立である。分裂病の遺伝子が解明されたという発表がしばしばなされる。新聞に大々的に報道される。しかし検証実験が続けられ、多くの場合半年ほどで否定される。この段階で真偽のコードが発動され、科学的言明のネットワークから排除される。こうしてシステムの産出的作動(科学的言明の産出)と論理的コードに従う作動(偽である言明の排除)とは別のものであることがわかる。論理的コードにかかりうる言明は科学的であるが、コード適合的に産出的作動がなされるわけではない。言明間の接続可能性と、真偽コードによる境界の確定は、独立の機構による。そうなると論理的コードは、現実の作動に対していかなる指針もあたえないだけではなく、そもそも作動の結果を記述するための記述のコードに留まる可能性が出てくる。そして現実にそうなのである。システム-環境を問題にしたとき、行為の次元と観察者によって対象化され記述される次元とが食い違っていたが、この食い違いがコードについて現実の問題となってしまう。(p.73)


「システムの産出的作動(科学的言明の産出)と論理的コードに従う作動(偽である言明の排除)」の区別は極めて重要である。



一般に統合は、エピステーメに属する。統合の破綻も統合内の齟齬も、そのためエピステーメに属している。これに対して接続こそ、ポイエーシスの原理である。(p.124)


本書から得た大きな収穫となった部分である。



そこで第三に感覚と感情は、起源も由来も異なると考えてみる。感覚は経験の境界を区切る活動であり、それじたいで作動を継続しながら経験の境界を区切ると同時に、感覚経験の単位であるノエマの産出を通じて経験の境界を区切る。感覚のシステムがそれじたいの作動をつうじて経験の境界を区切ることは、作動を継続するものが本性上備えた機構である。感覚に特有なのは、このシステムの構成素がそれぞれに固有に境界を区切ることである。赤をそれとして、臭いをそれとして、形をそれとして区分する。これに対して感情は、この境界のうちに閉じ込められた運動の剰余だと理解することができる。この剰余は運動系であるが、境界のうちに閉じ込められたものの本性上、境界の変動とともに運動の速度やモードに変化をもつ。感覚のシステムに対して感情はいわば浸透しているのである。浸透しているものは、それじたい構成素となることはなく、構成素に色合いをあたえる。この色合いが情感である。感情がどこまでも未分化にとどまり、かつ時として予測のつかない作動を起こしてしまうのはこのためである。
 この場合感覚と感情は、特殊なカップリングを形成していることになる。というのも感情の側は、このシステム固有に独自に位相化することはできないからである。感情は、アンリとともに自動運動するものだとみなしてよい。この点での異論はない。だがそれ単独で位相化することができないのである。怖い顔を思い浮かべてみる。ここから怖さを引き抜いて、普通の顔に戻すことはdけいる。ところが怖さだけを残して顔を引き抜き、顔の位置にどのような顔も充当しないような離れ業は、病気にでもならない限りできない。怖さだけが単独で位相化することは通常の経験にはない。(p.151-152)


浸透やカップリングという事態については、なかなか十分に捉えることが難しい。感覚のシステムに対して感情は浸透しているというのは、浸透という事態を理解するためのモデルとして利用価値が大きい。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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