アヴェスターにはこう書いている?
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山本直治 『実は悲惨な公務員』(その3)

規制緩和などで特定のお役所の仕事をなくしたり移したりすれば、当然その裏で何らかの問題も生じます(第5章参照)。ただ中央官庁をスリム化すればいいというのは、その点を無視した議論であり、責任の押し付けのようなものです。(p.103)


その通りである。

著者は、社会は繋がっているという認識をどこかで持っている。この点で(システム論者でありネットワーク論者である)私の認識と共通するところが多い。



 たとえば環境問題云々で世の中が「自動車を減らそう」と掛け声をかけます。しかし、企業は経営上の理由で、個人は生活の利便上の理由で、自分から減らしたがらないでしょう。お互いが「君が車を捨てろよ、俺は手放せない」ということをいい合います。
 お役所の仕事をどう手放すか、というのも結局そういう話
に近く、お役所の三位一体改革(税源移譲・国庫補助負担金の廃止縮減・地方交付税の見直しによって国と地方の財布をどうするか)や、地方分権、道州制の導入で国家公務員を地方に引き取らせるという話も、ごく単純化していえば結局、「お金はほしい」「権限(仕事)だけもらうのはいや」「仕事を移すなら人はどうするんだ」という綱の引っ張りあい、荷物の押し付け合いなのです。
 結局、現在の中央官庁というのは、自動車(仕事)は減らないのに道路(組織・人員)だけがどんどん減っています。結果として渋滞(公務員の勤務時間・負荷、行政事務の遅滞)だけが増えているというのが現状なのです。(p.104-105)


この自動車の例のように考えると、「官庁は権限を手放さないからけしからん」という議論を世論が自分の事を棚に上げて言えるのかどうかということに思いをいたさざるを得ない、というのが私の考えである。

私の考えでは、官庁や行政が悪いので日本の社会がおかしいというよりは、世論がおかしいことのほうが遥かに問題であり、それを政治や行政の責任だとするのは、はっきり言えば責任のなすりつけであり、冤罪に近いものがある。

(80年代後半、特にプラザ合意から90年代初頭のバブル崩壊への対処は政治の責任だが、その後の不況はかなりの程度、政治家や行政というよりも、世論が悪化を食い止める方向を見出せていないことに原因を求めることができる。そして、今でも、どのようにすれば社会の問題が小さくなるかということについて、世論は明確な方向性を持っておらず、それゆえ、政治家もそれを打ち出すことができない。私の考えでは、よい方向に進めるプランは既に存在するが、政治家はそれを打ち出せない。なぜなら、世論が表面的に望むこととは全く異なる選択肢を示さなければならないからである。)

行政への「批判」なき「公務員バッシング」「行政の無駄遣い」論は、悪しき世論の典型である。そのことが「増税と歳出構造の改変」という、問題の解決策の実現を妨げているからである。(もう一つの改善策である労働法制の再編成は予算なしにできるが、企業との関係で注意が必要になる。)



どんなに工夫しても、規制緩和が副作用のない万能薬になるわけではありません。必ずといっていいほど何らかのデメリット(リスクの増大、格差の拡大など)は生じるものなのです。
 規制緩和にともない、そういったことをどこまで容認するのか――規制緩和にあたっては、産業界や世論の後押しがあり、国会や専門家集団(各種審議会)で開かれた議論を行い、世論の喚起されてきたはずです。しかしひとたび風向きが変わると、かつて規制緩和をやれやれといっていた応援団はどこかに行ってしまい、いつのまにか役所ばかりが矢面に立たされて叩かれるようになってしまいます。
 この話を、本書の「まえがき」で触れた「北風と太陽」の構図に当てはめてみましょう。
 ここでは寓話とは順序が逆で、先に太陽がさんざん照らされて汗だくになり上着を脱いでいた(=世の中のプレッシャーで規制緩和に応じた)ところに、突然北風が吹いてきて凍えてしまうようなものです。つまり、こうした「揺り戻しバッシング」も違う意味で「北風思考」といえるのではないでしょうか。
 一般的に、お役人(お役所)は失策の責任をとらないといわれ、それはある意味事実です。しかし「いいだしっぺ」がいつの間にか議論から逃げてしまい、すべての責任をお役所が被らされていることもあるのではないでしょうか。
 それにおびえて規制緩和を進められないお役所は、「太陽と北風」の挟撃を食らっている被害者なのです。(p.153-154)


これも同意見である。

とりわけ、ここで私が想起するのは、財政赤字の問題である。現在、世論としては、財政赤字がかなり気になる問題として存在している。そして、増税におびえる世論が増税を避ける為に(この動機は表立っては意識されたりかたられることはないが、この関係は確実に存在するといえる)公務員バッシングをしているという現状がある。

(つまり、「公務員・行政の無駄遣いをなくせ!」と言うために、あら探しをして「こんなに無駄がある」と言って「これでは増税には応じられない」と言うような議論がその典型だろう。また、「こんなに財政赤字が膨らんで庶民の負担が重い(→実は重くはないのだが、この手の人々は常にこのように言う)のは、官僚が庶民から富を収奪しているからだ」と言ってみたりする議論もそれに該当する。しかし、そのような構造を実証した議論を私は知らない(むしろ、全く別のアプローチからそれを十分に示すことができるから、そんな議論は無用であると言える)し、実はその手の議論のほぼすべては次のような構成になっている。すなわち、幾つかのニュースになった事例を見て「官僚はこんなに無駄・収奪をしている」と言い、そこから「もっと無駄遣い・収奪しているはずだ」と推測し、その推測がいつの間にか全般的な事実に置き換えられて「無駄遣い・収奪している」ということが強硬に主張するという、わけのわからない議論になっている。

現在の財政赤字は、世界の政治経済の構造の変化という日本社会を単位としてみた場合における外部要因の変化と、90年代以降の政策の組み合わせの結果であると言える。そして、その90年代の誤った政策を容認してきたのは一人ひとりの有権者である。とりわけ現在40代以上の人々の責任は重いはずである。90年代に増税をせずに歳出の拡大(これは別分野での歳出削減をしない限り、当然に長期債務の増発を意味する)を容認したのは彼らである。しかし、現在、彼らは何と言っているか?多くは、増税をせずに歳出を削減せよという。そして、自分達が主権者であることを棚に上げて「官僚が無駄遣いしたから赤字になった」とでも言わんばかの恥知らずな論調が世論に広く広まっている。少子高齢化が進み納税者が減っていく中で、過去の債務を増税なしで返済するなどという主張をすることがどのような帰結をもたらすのかについて、全く見識を欠いている、単に短期的に自分に都合が良いことを言うだけのご都合主義である。

政府は、有権者に対してスウェーデンが中学生向けに行なっている租税教育を施さなければならない。日本の有権者達は租税についての見識について、スウェーデンの中学生以下のレベルだろうから。

あと付け加えると、90年代以降の財政赤字が膨らんでいった政府間関係の構造(集権的分散システムの具体的構造とその法的基礎)についても有権者たちを教育する必要があるだろう。

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