アヴェスターにはこう書いている?
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山本直治 『実は悲惨な公務員』(その2)

 さらに、高級官僚による厚待遇の天下り先として、国民やマスメディアから評判のよくない外郭団体の幹部ポストについても、大手民間企業に比べると給与水準が低いことが明らかになっています。(p.49)


本書はあまりデータが豊富と言うわけではないので、既に私が調べたり知っていたりする情報に基づいて書かれている部分が多い(例えば、公務員宿舎にしても、私は何年か前に国家公務員の友人の宿舎に泊めてもらったりしたこともあるので、家賃は安いがそれらが古いということや、良質な物件ではないということなどはある程度知っていた)。その中にあって、数少ない、私にとって未知だった情報の一つがこれ。そういうことでメモしておく。



 実をいえば、当のマスメディア自身も天下り天国であり、とても自分のことを棚に上げてお役所を非難できる立場にはないという指摘もあります。
 一例として、ジャーナリスト・岩瀬達哉さんの『新聞が面白くない理由』(講談社)にて、朝日新聞社幹部が多様な関連会社に多数天下りしている構図が暴かれています。
 もちろん、マスメディア以外の産業、すなわちメーカー・金融・商社・流通・運輸をはじめとする日本の大手企業も、直接の本業以外の事業を行なったり、あるいはもともと本社にあった福利厚生部門・情報システム部門などの非中核的業務を切り離すため、傘下に多数の関連企業を作ってきました。(p.81)


「天下り」に類することは日本に限らず、人間社会一般にとって不可欠なメカニズムであると考えるべきである。人間の社会的ネットワークはランダムネットワークではないのだから、社会を構成する各ノードの連結の仕方には当然に粗密があったり、また、各リンクには重み付けの違いがあることはネットワークの特性上、当然のことである。それなのに、社会はランダムネットワークであるべきだと前提して非難するのは全く建設的ではない。ランダムネットワーク的な社会ネットワークは大規模なものとしては持続不可能だからである。

その意味で、こうした各種の業界に同じようなパターンが見られるという指摘はそれなりに意味がある。



外郭団体の事業運営に効率性を求めること自体は結構ですが、なかには赤字であることを云々いっても仕方がないものもあるのです。外郭団体の存廃を議論するなら、その活動の意義や方向性から論じるべきです。(p.85)


その通りである。

ただ、「効率性」という言葉は多義的であり、また、測定の仕方も多様であり、測定の仕方によって、効率性の度合いも違ってくる。その意味で、効率性を求めること自体も、明確化した上でならば結構だが、明確にしない漠然としたイメージで効率性を言うのは不毛だということは付け加えるべきだろう。

また、「外郭団体の存廃を議論するなら」と言う部分も、行政組織やその業務一般に拡張できる話である。政治や行政は、単純な意味での「内部効率性」よりも、活動の意義や方向性こそ重要なのである。



公務員といえばいまなお誰もが九時-五時勤務で楽チン・グータラだ、という昔ながらのイメージを持つ人も多いのではないでしょうか。
 しかし、「組織には二割の優秀な人、六割の普通の人、二割の足を引っ張る人がいる」という法則が指摘されており、これは民間企業のみならずお役所でも当てはまることです。(p.94-95)


これと同じ議論を、私も先日、ブログに書こうとしていた。書こうとしたことがそのまま書かれていたので、ちょっと面白かった。「公務員」を「私とは別世界の人」と切り離して、「私」は安全な場所にいながら(というのは、「私」が「公務員」になる可能性はないという立場から)「公務員」をバッシングするというのが、公務員バッシングの基本的な構図なのだが、組織とか人間社会のあり方と言うのは「公務員」だろうと「非公務員」だろうと、恐らくそれほど変わるわけではない。

つまり、組織の目的や役割はもちろん違うが、「組織が作動するメカニズム」などは根本的には違わない。それらのどこが同じでどこが違うかと言うことをよく見定めた上で発言する必要があるのだが、実際の観察を省いて発言することになるから、公務員バッシングの多くは一世代(30年)くらい遅れたイメージが使われているように思われる。

実際、近年行なわれている「公務員バッシング」の言説の多くは、90年代初頭に流行した範型が雛形になっている点で15~20年位前のものである。行政学や行政組織の言動を詳しくチェックしてみると分かるのだが、98~01年頃から(財政の急激な悪化を受けて)行政組織の活動のモードはかなり急激に変化し始めている。70年代の革新自治体の時代と同じように変化は末端の市町村から始まっているが、それはあまり報道されていないように思われるから、知識として一般には広まっていない。

例えば、「予算の使い切り」なんていうのも、金のない自治体では行なわれない方向にシフトしてきている。むしろ積極的に「不用額を出せ」と指示されているのが実態であろう。しかし、バッシングの言説を見ると、いまだに「予算使いきり」がどうこう、という時代遅れの言説が十分に市民権を得て流通している。こうしたことは、公務員バッシングをしている人たちは公務員を観察していないということをよく示している。

なお、私は「公務員バッシング」ではなく「公務員(行政)批判」をしたいと思うので、公務員(個々の公務員というより、公務員をノードとするネットワークとしての行政組織の活動のモードや行政組織から発信される情報の意味とその変化)を観察するように心がけている。(ただ、私も最近は多忙などの理由によって、こうした地道な作業を十分行うことができず、行政組織が発した直の文書よりも、マスメディアを通じて流されるものが主たるものになってきたから、これはよくない傾向ではある。やはり実際の文書――可能であれば実地での観察や当事者との会話――に当たるべきなのだ。)

ついでに書くと、私としては政治よりも行政の方に興味がある。政治は「事件史」的だが、行政は「変動局面」的だと思うからだ。ただ、ブログという媒体は事件史の記録に適したものなので、変動局面を扱いにくいというところにちょっとしたジレンマがあったりする。



 とはいえ、お役所にいま見てきたような仕事の繁閑があるのなら、人員配置を工夫すればいいではないか、と思った方も多いでしょう。
 しかし、そう簡単にはいかない理由があります。お役所の人員配置はタテマエとしては「機構・定員(組織・定員)」という考え方のなかで、どのぐらいの量の、どのような仕事をするためにどのような組織・部署を構成し、そこにどのように人を割り当てるかという理屈のうえに成り立っています。
 というのも、行政の組織や定員は仕事の量にかかわらず肥大化していく傾向があるとされているため(パーキンソンの法則)、安易な肥大化を防ぎ、また民主主義的な観点(国民によるチェックが必要)から、行政の組織や定員はきちんと理屈を立てて法令などで規定されなければならないとされているからです。(p.101-102)



このあたりは「民間」のことしか知らない人にはあまり馴染みがないかもしれないが、行政学の教科書に出てきそうな内容である。(実際、この後、著者はこの原則的な考えに多少の批判を加える。)しかし、私としては上記の理由に留まらず、この「機構・定員」という考えの発想にも、行政の役割に特有の事情が反映していると見る。

というのは、行政のやるべきこととは「誰かがやらなければいけない最低限の保障」だからである。さらにいえば、それをやったからといって得をするようなことではないから、誰もやりたがらないようなことでもある。だから、「誰がそれを行なうか」ということを決めておかなければ、誰もやりたがらないことからは無責任に逃げることができてしまう。そのようなことがおきないために、誰がやるのかを予め決めておく必要があるのである。(だから、日本の場合、行政の事実上の末端組織である自治体には中央政府からの拘束・規制が膨大にある。)

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