アヴェスターにはこう書いている?
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ダーウィン 『人類の起原』(その4)

 人間は自分の飼っているウマやウシやイヌなどをかけあわせるときには、前もってその特徴や血統を細心の注意をはらってよく調べるが、自分の結婚になると、そうした注意はめったにはらわないし、ときには、それに全く無関心の人もいる。・・・(中略)・・・。しかし、人間は配偶者を選ぶことによって、自分の子供の体質や体格だけではなく、知的資質とか道徳的性質にも、なんらかの影響を与えることができるはずである。
 男でも女でも、身心いずれかにひどい欠陥がある場合は、結婚をさし控えるべきである。しかしこんな希望は理想郷での話であって、遺伝の法則が解明しつくされるまでは、それが少しでも実現することはなかろう。この目的の実現に手をかす人はだれであろうとも、すべて人類の福祉に大いに貢献するのである。・・・(中略)・・・。
 人類の福祉の増進ということは、きわめて錯綜した問題である。子供ができると、みじめな貧困に陥るということが目に見えているような人は、結婚はさし控えるべきである。なぜならば、貧困ということはそれ自体が一つの大きな罪悪であるだけでなく、貧すれば無分別な結婚をするようになり、それがまた連鎖的に貧困の度合いをますますひどくするのである。一方、ガルトン氏がいったように、思慮深い人が結婚を避けて、無分別な人が結婚をすれば、その社会の劣った人たちがすぐれた人たちにとって代わる危険性がある。
 人間は、他のどんな動物でもそうであったように、急速な人口増加の結果として生じた生存競争を通じて、今日の高い地歩を占めるまでに進歩してきたのである。そこでもし、これ以上さらに進歩しようとすれば、これからもきびしい競争を続けてゆかなければならないということになるおそれがある。さもないと、人間は怠惰に陥り、天賦の才をもつ人が、生存競争で平凡なものに勝ち抜くこともなくなるであろう。だから人口の自然増加率が高いということは、明らかにたくさんの害を生みだすけれども、どんな手段をとっても、この自然増加率を極端に下げようなどとしてはいけない。
 すべての人間が自由に参加できる競争が、あってしかるべきである。そして最も有能なものは人生においていちばん成功し、だれよりも多くの子供を育てることができるというわけであるが、これを法律とか慣習などで妨げることがあってはならない。生存競争は昔も今も重要なものであるが、人間の性質のなかで最も高度なものだけについていえば、生存競争以外に、それ以上にたいせつな要因があるのである。というのは、道徳的資質というものは自然淘汰によって高められるよりも、習慣や推理力、教育、宗教その他の効果が、直接に、また間接に影響して、さらに向上するものだからである。といっても、道徳意識の発達の基礎をなしている社会的本能は、この自然淘汰のはたらきによって生じたものなのである。(p.558-559)


ここは本書の結論の部分である。

前半部分(特に「身心いずれかにひどい欠陥がある場合は、結婚をさし控えるべき」とか「貧困に陥るということが目に見えているような人は、結婚はさし控えるべき」といった部分)は、典型的な「優生学」(とりわけ、消極的優生学、つまり、劣った者は劣った子孫を残すべきではない)の発想であることは明白であろう。実際、ウィキペディアで確認してみたら、「1860年代から1870年代にかけて、フランシス・ゴルトン卿は従兄弟のチャールズ・ダーウィンの理論によってもたらされた、ヒトと動物の進化に関する新たな知識に添ったこれらの考え方や実践を体系化した」と書かれていた。つまり、優生学がヒトだとしたらダーウィンの進化論は類人猿みたいなものなわけだ。このことがまず目を引いた。


また、私は何度か「ダーウィニズムと社会ダーウィニズムは別物であり、社会ダーウィニズムは不当な理論だが、ダーウィニズムはそうではない」という議論を目にした記憶があるのだが、本書を読んで、そのようにしてダーウィンを救おうとする議論は誤りであることが明確になった。

帝国主義は「優れた者が劣った者を支配するのは当然である」というイデオロギーによって正当化され、その代表格が社会ダーウィニズムだったわけだが、まさにダーウィンは、1871年という帝国主義の時代――19世紀中葉から第一次大戦頃までがおおよそ帝国主義の時代だとされる――の初期に本書を世に問うことによって、帝国主義を正当化する役割を果たしたと言うことができよう。


次いで、後半に移る。引用文の後半は、現代の日本でも同じようなことをいっている人間が多そうというか、どこかで見たことがあるような言葉が並んでいるように思う。2,3列挙してみる。

◆競争がなければ「人間は怠惰に陥り、天賦の才をもつ人が、生存競争で平凡なものに勝ち抜くこともなくなる」つまり、進歩がなくなる、といった意見がある。

活性化とか活力を欲し、そのためには競争こそがそのための唯一ないし最高の手段なのだと信じている人が世の中にはいるようだが、まさにそうした素朴な信仰――意見と言うより信仰――と全く同じパターンになっている。

◆すべての人間が自由に参加できる競争が、あってしかるべきである。

「結果の平等」と「機会の平等」という区別がよく行なわれるが、まさに機会の平等を重視するタイプの発想と同型である。しかも、ダーウィンはこの競争によって優れた者が勝ち残ると考えているのだから、そこでは積極的に「結果の不平等」が志向されているのである。私はここから小泉純一郎を思い出さずにはいられない。

◆そして最も有能なものは人生においていちばん成功し、だれよりも多くの子供を育てることができるというわけであるが、これを法律とか慣習などで妨げることがあってはならない。

この法律とか慣習によって「自由な競争」を妨げてはならない、それは活力を失わせる、というわけだ。まさに規制緩和論者や民営化論者のいつものフレーズと全く同じである。

現代日本で語られるネオリベラリズムの言説と見事なまでに同じ発想であることが分かる。

逆に言えば、140年も経っているのに、これらの人たちは全然「進化」していないらしい、ってことになる。
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