アヴェスターにはこう書いている?
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ダーウィン 『人類の起原』(その1)
本書は『世界の名著39 ダーウィン』である。

まずは、今西錦司による解説「ダーウィンと進化論」より。

 事務的な仕事といえば、彼はまた、1838年から三年間、地質学協会の役員をもつとめている。こうして社交範囲も次第にひろがり、ライエル、フッカーをはじめ、各方面の知名の士と知りあうようになる。そして、王立協会の会員に選ばれる。(p.15)


ダーウィンという人物が学問の世界で認められていったのも、こうした人的ネットワーク抜きにはありえなかったのではなかろうか。知的な影響や情報を得られるという点以外にも、例えば、ここで名前が挙がっているライエルとフッカーは、後にアルフレッド・ワラス(ウォーレス)との先取権を巡る問題でも、ダーウィンに先取権が得られるように計らっている。

ネットワークはそれ自体が力を持つ。



序 より。

人類の起原は解明することのできないものなのだと、今日までいく度となく、しかも確信をもってそれは主張されてきた。しかし、無知のほうが、有識よりも、よりしばしば確信を生みだすものである。科学ではあれこれの問題はけっして解明することができないなどと自信ありげに断言したりするのは、有識の人々ではなくて無知な人々なのである。(p.67)


知識があるよりも無知の方が確信を生み出すというのは、まったくその通りだと思う。あることについて実際は知らないのに、自分が知らないということに気づかぬままに、そのことを知っていると信じてしまうと、その信仰に固執する現象はよく見られる。しばしば人と議論を戦わせると、このことを非常に強く感じる。

例えば、新聞やテレビやネットなどで嘘の情報が流れている場合、その嘘の根拠を確認する人はほとんどいない。しかし、そうやって伝聞したことをあたかも自分で確かめたかのように信じてしまうということはよくあることである。

私の「ブログ複合体」での最近の例で言えば、所得税から住民税への税源移譲の際にひそかに増税が行なわれたとする怪情報が流れた際に、税についての深い知識もないのにそれを信じてしまう人が多々見られたということもそれにあたるだろう。(私はあの税源移譲については何年も前から研究し、私も概ね支持していた方向性の制度変更だったので、普通の人と比べると議論する準備はかなり整っていたのである。)私のメインブログにも2人ほど反論者が現れたのだが、なかなか考えを変えようとしない傾向はそこでも見て取れたと思う。

あと、思い出深いのは、小泉の構造改革がまだ人々に支持されていた頃、それについて議論になると、あまり社会科学的な知見がない人間ほど小泉の改革を信仰している傾向が強かったことも、これと同じである。社会科学的な知見をもっている人間は、自分達の研究している様々な事例などから、小泉のネオリベ政策がどのような帰結をもたらすかを知るチャンスが多いために批判的になることが多いのだが、そうしたチャンスやリテラシーがない人の場合、新聞やテレビ(そして、ネット)の情報が主要な情報源になるから、知識ではなく信仰の領域でものを喋ることにならざるをえないのである。

こうした論戦をする機会がここ数年で異様に増えたから、このダーウィンの言葉には深くうなづかざるを得ないのである。



第一部 人間の由来または起原 より。

 人間の生存闘争における抜群の成功からみて疑いのないことであるが、もし足でしっかり立ち、手や腕が自由になることが人間にとって有利であるならば、より以上に直立の姿勢をとる、あるいは二足歩行をすることが、人間の先祖にとって有利にならなかったというのはおかしいと私は思う。こうして彼らは、石や棒でみずからを守り、獲物を攻撃し、また、もっと別の方法で食物を得ることがもっとうまくできるようになった。最もよくできた身体の構造をもった個体が、最後には最もよく繁栄し、数多く生き残ったのであろう。(p.111)


この部分はダーウィンの思考様式の幾つかがよく出ている推論である。

進化という現象を考える際には、どうしても結果として見える現在の生物の姿から、過去の彼らの祖先へと遡っていかなければならない。だから、どうしても論理的には後件肯定の誤謬(もしPならばQである → Qである → したがって、Pである)を犯さざるを得ない。まぁ、一連の推論自体が、いわゆるアブダクションなのだが、ダーウィンの場合、このアブダクションを行なうときの前提として機能主義的な解釈を行なうのが特徴だと私は見ている。

だから、生き残った者は「優秀だから生き残った」と解釈される。そして、引用文の最後の一文で言えば、最も繁栄している者が繁栄しているのは最も優秀だからである、と解釈される。

しかし、これは正しいだろうか?ダーウィンの場合、こうした思考実験を繰り返し行なうのだが、その際に想定されている状況が不自然であるように私には思われる。それは経済学の市場での交換のモデルが現実にはまずありえない状況を想定しているのと似ている。そして、上記のような「生き残ったものが強い」とする解釈もまた、市場原理主義者がしばしば主張しそうなことと重なって見えるのである。

この問題については、もっと取り扱いやすいテクストがあれば、その時点で再論したい。


なお、ダーウィンの極端な機能主義的な世界観に対しては、生物学の素人が考えても、論理的にはダーウィンの行なった推論が唯一の可能性ではないことは即座に分かる。例えば、機能的な優越性は「足きり」にしか使われないというモデルも考えられるからだ。つまり、ある一定以上の機能が備わっていなければ生き残れない可能性が高いが、ある一定水準をクリアすると生き残ることにはあまり支障がない、という可能性などである。
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