アヴェスターにはこう書いている?
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ショーペンハウアー 『意志と表象としての世界』(その4)

 以上のように普遍から特殊へと進む科学固有の認識の道は、先行原理からの演繹、すなわち証明による基礎づけが科学にあってはきわめて多いという結果をもたらすであろう。そしてこのことがきっかけで、証明されたものだけが完全に真理であり、どの真理も証明を必要とするというあの古くからある誤謬が生じたのである。ところが実際はむしろその反対で、証明というのはいずれにせよ、証明されざる真理を必要としている。すなわち証明されざる真理が究極には証明を支え、あるいはまた証明の証明を再び支えているからである。・・・(中略)・・・。証明というものはしょせん推論であるから、一つの新しい真理のために求めるべき最初のものは、証明ではなしに、直接の明証Evidenzである。ただ、この直接の明証がない場合にのみ、差し当たり証明がおこなわれなければならないまでである。いずれの科学でも隅から隅まで証明され得るものではない。(p.200-201、本文で傍点の部分に下線を付した。以下同様。)


論理的な説明そのものには限界があるということを指摘している点は正しい。確かに、証明の論理はシンタクティカルには、ある地点で停止しなければならない。ただ、この地点で参照されるのは、ショーペンハウアーが言う「直接の明証」ではないことが多い。なぜなら、「日常言語の意味空間」に属するような、自覚されない共通認識が前提されることが多いからだ。

「直接の明証」は、運動感覚としてのみ得られるというのが私の考えだが、ここから直接科学の理論に展開することはまずない。それは一般には、日常言語の意味空間に反映し、その意味空間から理論言語の意味空間へと抽象が進むという道になる。証明が行なわれる理論言語の意味空間と身体の運動感覚は隔たりが大きいので、直接そこまでジャンプすることはできないことが多いのだ。

したがって、ある程度以上複雑な事実を認識するためには、最初に「直接の明証」を求めても、あまり意味がない。そもそも最初の所与となるものがテクストである場合すら多いのだから、この場合の直接の明証は、何らかの印(→テクストを構成する文字のこと)が網膜に映ることでしかない。

しかし、科学史ないし科学論の歴史という観点から見れば、カントの批判主義を通過した時代(19世紀前半)には、上記のように証明の限界などについての認識が深まってきていたことは読み取ることができる。



 総じて証明というものは、学びたい人々のためというより、むしろ論争したい人々のためのものである。(p.205)


確かに一理ある。しかし、一面的でもある。

ショーペンハウアー自身が言うように、証明が必要なのは、直接の明証がない場合や直接の明証だけからは知ることができない場合である。(科学が扱う事柄はすべてこうしたものである。直接明証的なら、わざわざ研究する必要などないのだから。)そこでは当然に不確実性(誤謬の可能性)が付きまとう。だからこそ論争が起こるし、そのようにして論証が生き残るかどうかがテストされ、それに生き残っている限り、暫定的に「正しいらしい」ものとして是認されるのだろう。

ショーペンハウアーはここに至るまでの例示でも、本当は直接の明証が得られていないようなことを、あたかも直接の明証が得られているものであると考えているらしい。(私が考える「直接の明証」とショーペンハウアーのそれとは異なっているらしい。)ショーペンハウアーは慣性の法則や物質の恒常性などを明証的なものだと考えているようなのだが、これらは抽象的に考えられた「理論」なのである。



第二巻 意志としての世界の第一考察 より。

 誰にしても自分自身という現象は、彼の行動によってであれ、行動の持続的な基礎である身体によってであれ、目の前に表象として現われているものであるが、この自分自身という現象の本質それ自体となると、これは彼の意志であって、意志は彼の意識のなかのもっとも直接的なものを決定しているのである。このような認識は、誰でもが具体的にそうして直接的に、すなわち感情として所有している認識であって、以上の節で述べてきた諸考察を通じてこの認識は抽象的に、したがって明晰かつ確実な認識になったのではないかと思う。ところで意志は、このようなものである以上、主観と客観とが互いに対立している表象の形式のうちにすっぽりはまりこんでしまうことはない。主観と客観との区別を完全に明確には立てられない直接的な仕方で、意志は告知されている。しかしまた意志は全体として知られるのではなくて、ただ個別の働きにおいてのみ個人そのひとに知られるにすぎないのである。――
 以上のような確信をしっかりわたしと一緒に手にした人は、敢えて言うが、この確信をこそ全自然の内奥の本質を認識する鍵におのずとなしうるであろう。というのも、そのような人はいまやこの確信を(自然界の)あらゆる現象にも移して当てはめてみることができるからである。自分自身という現象のように、直接の認識と間接の認識の両方にまたがって与えられている現象ではなく、もっぱら間接の認識において、単に一方的に、ただ表象としてのみ与えられている現象(自然界の現象)にもこの確信を移してみることができるのである。彼はもっとも内奥の本質としてある意志を、人間や動物など、自分自身にまったく似ている諸現象のなかに、認めるだけでは終わらないだろう。さらに反省をつづけていくならば、植物のうちに働き成長していく力も、いや、結晶を形成する力も、磁力を北極に向ける力も、異質の金属との接触から磁力を引きつける力も、物質の親和力というかたちをとって離合集散として現象する力も、さらに最後に、あらゆる物質において強力に吸引した石を地面に、地球を太陽に引きつける力でさえも――これらのすべては、現象の面でのみは異なっているが、内的本質のうえからは同一のものと認識されるべきである。これらのすべては、他のあらゆるものより人に直接的に親密によりよく知られいるなにものかであって、それが歴然と姿を現わす場合には意志とよばれているものに当たるのである。
 このようなところまで反省を適用していくことだけが、われわれをもはや現象に立ち止まらせることなく、これを超えて物自体へと導いていく。(p.261-262)


本書の第21節の大部分を抜書きした。この箇所は、本書の思想のうちもっとも大きな誤りを犯している箇所のひとつである。

自分自身の本質を意志と呼ぶことまでは、一応、許容範囲だと判定するとしても、「自分自身という現象のように、直接の認識と間接の認識の両方にまたがって与えられている現象ではなく、もっぱら間接の認識において、単に一方的に、ただ表象としてのみ与えられている現象(自然界の現象)にもこの確信を移してみることができる」というところで論理の飛躍が生じる。

意志が主観と客観の相対関係の中で見られる表象とは異なるということを認めるとしても、それは自らの意志が直接経験されているからに他ならない。これを、あらゆる表象の内奥にあると想定されている物自体に適用することは――もっとも、このように物自体を想定すること自体が誤りだと批判できるのだが、それは措くとしても――まさにカントが禁じたことに他ならないだろう。

もし、ショーペンハウアーが例示したような諸現象(表象)が、意志の個別的な表れ(客体性)だとするならば、いろいろな問題が生じる。例えば、どのように意志の客体化は行なわれるのか?万有引力や地球の磁力や化学変化の力などとして現れる意志が有機体が生命を維持する力として現れる意志と「内的本質において同一」であると言える理由は何か?などなど。

ただ、いずれにせよ、語りえない事柄について語ることになってしまうことは確かであり、それを説明している論理の弱さは大きな問題である。人間の心理的なエネルギーが発生することが「意志」の働きだと感じられるということを、自然現象に観察される現象に働く力の源泉でもあるのだと、強引にアナロジーを使って持ち込むことによってそれを成し遂げようとしているのだ。これでは上で引用した「直接の明証」がない上に、論理的な証明も欠く事になってしまうと言わざるを得ない。

ショーペンハウアーの場合、ここに「人間の心理的な意志」と「物自体としての意志」との混同をもたらす大きな原因がある。私としては、この二義性を明確に区別して理解する限りでは、ショーペンハウアーの理論はそれなりに正しいところを突くことが多いのだが、この区別の曖昧さは、本書の後々まで尾を引くので看過できないところである。

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