アヴェスターにはこう書いている?
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ショーペンハウアー 『意志と表象としての世界』(その2)

 論理学を実用に役立てるただ一つの場合は、論争に際して、相手方に対し、その実際上の誤りというよりは故意になされたたぶらかしの偽論を、論理学の術語で名ざして指摘してやることくらいであろう。(p.174)


概ね同意見である。論理学は論理的に思考すること自体には役立たないという点においてショーペンハウアーの意見はポイントをついており、正しい。

ただ、ショーペンハウアーが言うケース以外にももう少し役立つとは思う。例えば、自分が一度考えた論理が正しいかどうか事後的にチェックする際に、論理学で教えられる典型的な誤謬推理の類型を使うことができる。これは引用文のような、論争に際しての使い方と同じだが、応用範囲はもう少し広いということである。

とりわけ論点先取の誤謬帰納的飛躍の類はよく見かけるものだが、これらのパターンを知らなければすぐには気づかないこともある。実際、先日の「負担」(国民負担率)に関する議論でも私が指摘しているのは帰納的飛躍に関する事柄(つまり、これと同型の論理的誤謬)であるが、このことを理解出来ない人は結構多かったようだ。分かる人には瞬時に分かることなんだが。



意識Bewußtseinという語は、知ることWissenという語から取られたものであるけれども、知るとはいえない動物にも意識はあるとわれわれは考える。(p.181)


BewußtseinもWissenと同根なんだ。言われてみればよくわかるかもしれない。その感覚(語感)。

この語はヤスパースの哲学でBewußtseinüberhauptという形でよく使われていて、私にとっては馴染みが深い語なので、「へぇ~」って感じだ。



 ということばが示す概念は、どこまでもネガティヴな内容のみをおびている。意識の中にありありと浮かんでいるものが概念ではないこと、理性の抽象的概念ではないこと、といった(……でない、という)ネガティヴな内容のみをおびている。すなわち抽象的な理性認識に入らないものなら何であろうと、という概念に入ってくるといっていい。この概念の並外れて広い範囲はそれゆえもっとも異質なものごとをさえも包み込んでいる。それら異質なものごとが抽象的概念ではないというただネガティヴな点で一致しているにすぎないことを認識しておかないと、どうしてこのような異質なものごとが集まって一緒になるのかがなんとも理解しがたいだろう。(p.181、本文で傍点の部分に下線を付した。)


ここで情と訳されている語は、Gefühlである。この語に対する上記の定義は、恐らくショーペンハウアーによるものにすぎないとは言えるだろう。ただ、このようなネガティブに規定された概念というものも世の中には結構ありそうに思われる。とりわけ、理論言語よりも日常言語では、こうした曖昧な規定のものが多いように思われ、そうした概念の意味を識別しようとする際に利用可能なパターンのひとつを、この事例は提示しているように思われる。そこが私の関心を引いたところである。

ただ、このようにネガティヴに規定された概念は、自分が使う段になると、積極的な主張をするためには基本的には使えないことが多いし、混乱を招きやすいと思うので、積極的な規定を与えた理論言語にまで高めてから使う方がいいだろう。



 あらゆる概念は、といって語の表示するのはどのみち概念のみであるが、ただ理性に対してのみあり、理性を起点としているものである。したがって概念を用いるということは、はじめからある一面的な立場に立つということである。しかし一面的な立場に立っているからこそ、近いものは明瞭にうつり、積極的(ポジティヴ)なものと定められるし、遠いものは混然とまじり合って一つになって、間もなくせいぜい消極的(ネガティヴ)に考慮に入れられるにすぎなくなってくる。例えばどの国民も自分以外の国民をすべて外国人とよび、ギリシア人はあらゆる他国民を野蛮人(バルバロイ)、イギリス人はイギリスもしくはイギリス的でないものをひっくるめて大陸そして大陸的、信仰者は自分の宗派以外のものをすべて異端者または異教徒、貴族は他のすべての人を平民、学生は他のすべての人を俗物(フイリスター)とよぶがごときはその例である。このような一面性、これは自負心から生じるところの粗野な無知だということもできるが、いくら奇妙に聞こえようとも、これは理性が自ら招いた過ちなのである。というのは、理性は直接に理性の表象の仕方に属していないもの、すなわち抽象的概念ではないあらゆる意識の変化形態をという一つの概念のうちに包みこんでしまうからである。(p.182-183、本文で傍点の部分に下線を付した。)


ナショナリズム論の見地から見ても興味深い叙述。ショーペンハウアーの生きた時代は、ウェストファリア体制が成立してから次第に国民国家が形成されていく中で、「これから完成に向かう」という時期(本書の第一版は1819年。ドイツの国民国家体制の完成は1871年としておく。)にあたるから、尚更興味が引かれる。

特に、ベネディクト・アンダーソンの見解にも通じる見方である点に私は注目している。例えば、アンダーソンは出版資本主義を重視したが、主に言葉を介して「想像の共同体」たるネイションはイメージ(表象)される。(その他のシンボルも使われるにしても。)こうして、ネイションというものは、ショーペンハウアーの区分で言えば、「表象としての世界」に属するものである点も興味深い。

私の観点から見てアンダーソンの叙述もショーペンハウアーの叙述も弱いのは、ショーペンハウアーの言う「意志としての世界」の領域でこれと対応することについて積極的に発言していないことである。(第四巻で、法や正義、不正などについてショーペンハウアーは語るが、こうしたナショナリズム論に結びつくような仕方ではなく、むしろ道徳論的ないし宗教的な関心から語っているに留まる。)ネイションはある種の幻想ではあるが、それ以外にも何ものかではあるはずで、それについての言及がどちらも弱いということ。

その辺についても、いろいろ書きたいことはあるが、今日は少し時間がないようなので、メモのみにしておく。
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