アヴェスターにはこう書いている?
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ショーペンハウアー 『意志と表象としての世界』(その1)
本書は、中央公論社の『世界の名著・続10』である。今は中公モダン・クラシックスというシリーズになっているらしいが。

まずは、西尾幹二による解説「ショーペンハウアーの思想と人間像」より。

 意志をめぐる彼の形而上学が、一方では非人格的な自然界の根源にある意志について語りながら、他方では人間の倫理の領域にのみ関係のある意欲についても語るという矛盾を孕みながら展開されていくありさまは、本書の読者ならば誰でもただちに気がつくことであろう。つまり彼のいう意志は、「非人格的な全一者」でもあるとともに、人格的な色彩を賦与された意欲の世界でもあるという二重性をそなえているのである。後者の場合に形而上学が道徳論にならざるを得ないことは、事の本性上当然であると言えるだろう。
 そのような矛盾は、本書の最後の四節に至って、ごまかしようのない姿で露呈されたといってもいい。もしも宇宙の原理が「意志」であり、これが「非人格的な全一者」であるなら、そもそも解脱のために意志を否定するということは成り立たないのだ。むしろ意志と自分との一体化をはかることで解脱が達せられるはずである。(ショーペンハウアーは第六十七節まではしきりにそう述べているのである。)しかしまたひるがえって人間の意志を禁欲や苦行によって否定することが解脱への道であるというのなら(彼は最後の四節でにわかにそう説いているのである)、その場合の意志とは、人間の意欲や欲念や欲情のことであって、非人格的な宇宙の原理となることはできない。こんな具合に矛盾は赤裸々に現われている。矛盾の根本原因は彼が単なる人間の意志を、特殊な言葉で拡大解釈して、「梵(ブラフマン)」にも比すべき宇宙の大原理として打ち建ててしまったところにある。そもそも本書の論理上の混乱はすべてそこにある。(p.75-76)


西尾はここで概念を一義的に使わなかった(多義的に混同しながら使った)ことによる誤りを指摘しているが、この指摘は正しいと思われる。(先日、メインブログで「負担」という概念を一義的に使わなかった人を批判したが、それもこれと似たようなものである。)

ただ、西尾の批判で気になるところがある。私は、今のところまで最後まで読み通していないこともあり、まだ断定できないところもあるのだが、西尾はショーペンハウアーは意志を肯定することで解脱に至ることができると「第六十七節まではしきりにそう述べている」と言っている。

しかし、私が読むところそうとも言えないように思われるのだ。確かにそのようなことを言っているところも結構ある。しかし、すべての箇所でそのように言っているとは思えない。むしろ、それらの部分で言われているのは次のようなことではないか。すなわち、意志を肯定することによる(一時的な)解脱の道はありうるし、表象としての世界では意志の客体性の最高の段階である人間に至るまで、意志はその現象する程度を高めるという形で肯定されてきたのではあるが、そうした肯定の道は最終的には必ず挫折することに気づかざるを得ないのであり、そこから意志の否定という道へと進むことになることを暗示しているのではないか。その意味では、キルケゴールの倫理的実存の段階から宗教的実存の段階への飛躍に近いものがあると私には思われるのである。

その意味では、確かにショーペンハウアーには概念の混乱とそれに基づく矛盾はあるのだが、西尾が言うほど低レベルな(明々白々たる)矛盾を犯していると、簡単に断ずるわけにはいかないのではないか、というのが現時点での私の読みである。




第一巻 表象としての世界の第一考察 より。

すなわち、物質の存在とは、物質の働きWirken(作用、影響、活動)のことである。働きということを離れて、それとは別の物質の存在などは、考えてみることさえもできない。もっぱら働く(活動する)ものとしてのみ、物質は空間を充たし、時間を充たしているのだ。物質が直接の客観(身体のこと)に対して〔その直接の客観自体がすでに物質なのであるが〕、なんらかの働きかけEinwirkungをおこなうことが、直観をひき起こすのであり、物質が存在するのはひとえにそのような直観の中だけである。・・・(中略)・・・。以上のような次第だから、ドイツ語ですべての物質的なものの精髄を言い表わすのに現実性Wirklichkeitということばで呼んでいるのは、きわめて的確なのであって、このことばは実在性Realitätというよりもはるかによく特色を示している。(p.120)


ここはドイツ語のWirklichkeitという語についての説明が注意を引いた。このブログで詳しく書くようなことではないと思うが、私は自分の認識論において、事実factと現実性Wirklichkeitとを区別している。factというのは、理論によって作られる事実であり、観察される事実である。だから常に理論負荷的であり、触れることができない、語られる事実である。それに対してWirklichkeitとは感覚されるものであり、語ることができないものである。前者はテオリアによって認識され、後者はポイエーシスによって認識されると言ってもいいかもしれない。

しかし、後者をWirklichkeitという用語で言い表わすことに対して多少の躊躇があった。しかし、やはりこの語がWirkenと同根であることを確認することによって、これでよいという確信が深まった。なぜならば、後者は常に行為と共にあり、システムの作動と共にあるものだから、Wirkenという語はそうした作動を端的に示すことができると思われるからである。

ただ、ショーペンハウアーの上記の箇所におけるWirkenとはこれは意味が違っていて、むしろ、ショーペンハウアーの図式で言えば、表象としての世界に対応するのがfactであり、意志としての世界に対応するのがWirklichkeitである。ショーペンハウアーの場合、物自体が主観の側に働きかけてくるイメージがあるが、私の場合はシステムである私自身が作動することについて指示していることが、この違いの源泉だろう。

なお、ショーペンハウアーは、上記の引用文と同じような中身のことは、本書の中で何度も述べているが、私にとって興味深いのは、意外と私とショーペンハウアーの認識論的な位置は近いということである。両者ともカントが基本にあることを別としても、私の使っているWirklichkeitという言葉はシェリングに遡るのだが、本書(世界の名著・続10)の付録(?)に訳者の西尾幹二と斉藤忍随という東大の哲学科の教授らしき人との対談で、斉藤氏が興味深い指摘をしているのだ。

19世紀の哲学史のまとめ方として、ヘーゲル哲学の崩壊の過程が描かれる際、左翼にマルクス、その対極にニーチェやキルケゴールを配置するという図式が行なわれたが、その際に、後期シェリングやショーペンハウアーが抜け落ちてしまうと指摘し、この二者は表面的には関係がないのに、言葉遣いが非常に似ていると指摘している。そして、斉藤は、むしろ、ドイツ観念論をフィヒテと若きシェリングからスタートしてヘーゲルに至るよく描かれる流れとは別に、後期シェリングやショーペンハウアーに至る流れがあったと捉えるべきだという。(そこにはニーチェやフロイトまで視野に入るといっている。)

私としてはこうした系譜的な哲学史の捉え方自体を批判的に見ているところがあるので、斉藤氏の見解をそのまま受け入れるわけではないが、村上陽一郎がかつて使っていた言葉で言えば、後期シェリングとショーペンハウアーは共通の「意味空間」のreferしていると捉えることはできる。で、私のfactとWirklichkeitとの区別は河本英夫によって明確になったのだが、その河本も自己組織化を説明する段でシェリングに論及しており、シェリングの体系Systemはオートポイエーシスとそれなりに共通点が多いと言う事はできそうなのだ。だから、「シェリング→河本→私」という影響関係があったとして、ショーペンハウアーはそのシェリングと共通性が高い同時代人というわけで、その意味で、私との思想的な共通性があってもおかしくないということを強く感じている。

そうした文脈の中でWirklichkeitという言葉を位置づけるとなかなか面白いものがあると思ったので、ここに記録しておく次第である。私以外の人が読んでもまったく面白くも何ともないだろうが、とりあえず、自分にとっては重要なことなので記録しておく。

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