アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

C.G.ユング 『結合の神秘 Ⅱ』(その3)

 人が耳を傾けようとしない賢者は、阿呆と見なされ、世間一般の愚かさを最初に最も声高に代弁して告知する阿呆は、預言者ないしは指導者〔総統〕と見なされる。幸いなことにときおりこれと反対のケースも見られる。さもなくば人間はその愚かさのゆえにとっくの昔に滅んでいたことであろう。
 精神的不妊によって特徴づけられる「精神病者」が「真理」を語らないのは、彼が一廉の人格者ではないからというばかりではなく、彼がコンセンサスを見出さないからでもある。ところがコンセンサスを見出しさえすれば誰でも「真理」を語ったということになる。形而上学的問題においても、通用するもの、妥当性をもつものが真理であって、それゆえ形而上学的発言にはいつも承認と妥当性に対する並はずれて強い要求がつきものである。というのもその発言の成否はそれが真理であることが証明されることにかかっているが、妥当性こそその証明の唯一の可能性からである。形而上学的な証明要求はすべて避けがたい「論点先取りの虚偽」petitio principii〔論証さるべきものを論証されたものとして前提する虚偽〕であって、これはたとえば神の存在証明の場合を考えれば、分別ある者なら誰でもすぐに分かることである。
 ある形而上学的真理を打ち立てるにはもちろん妥当性の要求だけでは十分ではない。この要求に応える、多くの人々の同じように強い欲求がなければならない。このような欲求はつねに精神的窮境から生ずるものである以上、形而上学的発言の解明にあたっては、当の形而上学的発言に説得される人間の心的状況も考察されなくてはならない。するとこういうことが明らかになる。霊感を受けた人間の発言はまさしく、世間一般の心的窮境に対して補償的関係にあるイメージや観念にほかならないということである。このようなイメージあるいは観念は霊感を受けた人間が意識的に考え出したり思いついたりしたものではなく、体験として彼にふりかかってきたものであって、彼はいわば進んで、あるいは嫌々ながらその犠牲になったのである。ある意識超越的な意志が彼を捉え、これに対して彼は首尾よく抵抗することができなかったのである。もっともなことながら彼は自分を屈伏させたこの優勢な力を「神的」と感ずる。この呼び方にはわたしはまったく異存はないが、しかしどう努力してもわたしには、これを超越的な神の存在を証明するものと見なすことはできない。善意の神が実際に救済をもたらすある真理を霊感として吹き込んだのだと仮定しよう。しかしそれならば、生半可な半真理、いやそれどころか禍い多き妄想が吹き込まれ、この妄想が進んでこれを迎える信奉者を見出したような場合が過去も現在もいろいろと見られるが、この場合はどういうことになるのだろう。この場合はおそらく悪魔の仕業だということになるのであろう。それとも――「悪はすべて人間から」omne malum ab homineという原則に従って――人間それ自身に責めが帰せられるのであろうか。このような形而上学的な「あれかこれか」という論法を適用するのはつぎのような事情からいってやや無理がある。すなわち大抵の霊感はこの両極端のあいだで生じ、まったく真でもなければまったく偽でもなく、したがって――理論的には――その成立を善の力と悪の力の協同に負うているからである。こういう事情が成り立つためには、半分だけ善であるようなある目的に向けて両方の力が協力計画を立てたと考えるか、あるいは一方の力が他方の力の仕事に横合いからちょっかいを出したと考えるか、それとも第三の可能性として、人間は神の意図、すなわち完全な真理を――半真理など問題外であろう――霊感として吹き込むという神の意図を、いわゆる悪魔的な力でもって無に帰せしめることができると考える以外にあるまい。しかしそうなると、いずれの場合も神の全能はどういうことになっているのであろうか。
 したがってわたしにはつぎのような態度で臨むのが、まことに旧式な評価の仕方ではあるが、より賢明であるように思われる。すなわち、どんな場合もほかならぬ最高の形而上学的要因なるものは考慮に入れたりせずに、もっと控えめに、人間的なものの範囲内にある無意識の心的な、ないしはサイコイド的な要因を霊感やこれに類する諸事象の源と見なすのである〔サイコイドは、集合的無意識の最深層に属する、本能と結びついた、心に類似した何ものか、またその領域〕。(p.361-363、本文で傍点の箇所に下線を付した。)


前半の部分は、形而上学的な真理の問題ではなく、世俗的世間的な主張におきかえるといっそう興味深く読める。

「世間一般の愚かさを最初に最も声高に代弁して告知する阿呆は、預言者ないしは指導者〔総統〕と見なされる」というのは、まさに小泉が首相として迎えられたときの世論の状態であり、また、安倍晋三や橋下徹の過激な発言が、むしろ期待を持って受け止められたことに相当する。

それは後段の次の箇所を見ると一層その並行関係が際立ってくる。すなわち、「ある形而上学的真理を打ち立てるにはもちろん妥当性の要求だけでは十分ではない。この要求に応える、多くの人々の同じように強い欲求がなければならない。

そして、次の言葉は非常に示唆に富む。

「霊感を受けた人間の発言はまさしく、世間一般の心的窮境に対して補償的関係にあるイメージや観念にほかならない。」

小泉の「改革」へのポーズや安倍・橋下の強気で過激な発言がある種の熱狂をもって受け入れられたということは、彼らが示したイメージは「世間一般の心的窮境に対して補償的関係にある」と考えられる。それは、現在の状態に何か鬱積した不満があるということであろう。だから、それを激しくぶち壊してくれそうなものを熱烈的に支持するのだ。(だから、リーダーがその期待に応えないことが明るみに出ると、支持率は急落する。)

彼らとは一見反対の小沢一郎による民主党の「生活」重視路線が受け入れられたことにも、恐らく同じ面があるが相違もある。同じ面は、今の状態を劇的に変えてくれそうだという期待を背景にしていたという点である。相違は、上記の自民党系の連中が過度に観念的であるのに対して、民主党の場合はメッセージの方向性としては、より現実的な方向に目を向けているという点にある。そして、現実的な方向であったが故に、それは熱狂的な支持とはやや異なり、支持も地味なものになっていると思う。だから、自民党がダメだから民主党に、という「次善の策」として支持される形になっていたと思う。

しかし、私はこうした地味な支持の方が持続性の面で優れており、カリスマ的なリーダーを輩出しようとするよりも戦略的に見て正しいと考える。ウェーバーのカリスマ論の文脈で語れば、カリスマは日常化するのが常だからである。ただ、私から見ると民主党の問題は、生活重視がどれだけ貫かれるか疑問があるというところにある。

世論は単にそれとして存在するものではない。何らかのアクションに対するリアクションとして反響するものである。現代日本の政治においては、アクションはアメリカ、政府、与党からマスコミを通じてやってくる。権力がマスコミを制御していることがかなりネックになる。マスコミは民間企業だからコントロールしやすい。極論すれば、売れるものしか売らないからだ。メディアに公共性を持たせるように権力とメディアと大衆の関係を変える必要がある。そのためにどうすべきかという全体像は、今の私には描けないが、記者クラブ制度の打破は、政治行政とメディアの権力関係を変化させるものであり、最重要課題の一つではなかろうか。



教会の教義が、宿命的に敵対関係にある心理学を同化することができれば、それは教会の教義の生命力の証である。なぜなら生命とは同化作用にほかならないからである。もはや同化する力のないものは死ぬ。(p.398)


政治運動や社会運動などもそういうものかもしれない。生命は同化作用だけではないにしても。



ユングは次のオルダス・ハックスリーの言葉に共鳴する。

十七世紀の終わり頃には神秘主義思想は、古くはキリスト教において有していたその意義を失ってしまい、今日では半死半生という以上の状態にある。<それがどうしたというのか>と尋ねられるかもしれない。<なぜ死んではいけないのか>、<生きていて何の役に立つのか>。――これらの質問に対する答えはこうである。ヴィジョンなきところでは、人間は死ぬ。そして、もし地の塩である人々がその塩の風味を失えば、地を殺菌状態に保持してくれるものはもはや何もなく、地が完全な腐敗に陥るのを防いでくれるものは何もない。神秘主義者たちは、真の現実に関する多少の知識が無知と幻覚に満ちた人間世界に濾過されてくるフィルターである。世界が完全に非神秘的であれば、それは完全な盲目と狂気の世界であろう


ヴィジョンという言葉をブログでは私は滅多に使わないが、かなり重視しているものである。この言葉は、数年前、各種の政策科学を勉強し始めた頃、盛んに使っていた言葉である。言葉は使わなくなったが思っていることは同じだ。何をなすべきか、何が良いことなのか、そういうことについてのヴィジョンがあるかないか、ということは極めて重大事だと考えているわけだ。(少し前のある議論で「展望があるかどうか」ということを書いたのは、このような持論に発している。)

上の方で世論の状態について少し書いたが、まさに今の世論にはヴィジョンが必要であると考えている。明確な方向性を示すヴィジョンを誰かが示し、ある程度の割合の人々がそれをはっきりと支持するような社会になれば、生き残る見込みも増えるだろう。今の日本の社会にはヴィジョンがない。そして、ヴィジョンなきところでは、人間は死ぬ。
スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/287-6cb40665
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)