アヴェスターにはこう書いている?
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C.G.ユング 『結合の神秘 Ⅱ』(その2)

変容を引き起こすという事実があるからこそほかならぬ心理療法は、まず第一にこの間の問題に取り組んでいるのである。とりわけ意識化は、人格を変化させる重要な手段として心理療法上の諸原理の一つをなしている。変化が好都合な方向に展開した場合、それは改善と評価される。それも患者自身の発言にもとづいてそう評価されるのである。改善は第一には心的な健康状態のことを指しているが、第二には道徳的な改善をも含意している。改善かどうかの判断は、このような価値評価がそれと気づかれないかたちで世界観的先入見の領域に移行してゆくに従って困難の度を増すか、まったく不可能になる。この領域では客観的な考量は恣意による決定の前に引き退がらなくてはならないからである。改善か否かの決定は例外なく極めてデリケートな問題で、そのため骨の折れる考量と比較によるよりも素朴な先入見による方が比べものにならないほど容易に決着がつく。先入見の田畑をせっせと耕している「恐るべき単純化主義者」にとっては考量と比較の努力は侮辱以外の何ものでもないのである。(p.215、本文で傍点の箇所には下線を付した。)


これは心理療法やそれが道徳の領域に踏み込む場合に限らず、広い意味での社会的な問題にはいつも当てはまることのように思われる。先入見の田畑を耕している「恐るべき単純化主義者」というのはどこにでもいるもので、実際、誰もがあらゆる事柄を客観的に調べるなんてことは労力的に不可能である以上、こうした者が現れることは不可避的でさえある。

私が最近闘っている「恐るべき単純化主義」の一形態は、「行政の無駄遣い」論である。財政の全体のあり方について調べることなく、彼らの場合、先入見の田畑を耕してくれるマスコミの断片的な情報から、一気に全体判断にまで飛躍してしまう。

確かに、行政は歳出を完璧に役立つように行なうべきではあるが、そこに一点の付け入る隙もないような使い方をすることは不可能である。(民間企業だってそうだろう?)完全な潔癖さを求めるのもいいが、それが「重箱の隅」でしかない可能性も考慮すべきなのである。もし重箱の隅でしかなかったとすれば、それは「論点そらし」でしかないことに気づくべきなのである。

だから、それをはっきり知るために、むしろ全体的な構造を把握することが必要であり、そのためには、様々な分野の予算について「骨の折れる」分析をしなければならないはずなのである。(私は数年前に――完全にとは言わないまでも――、一度やっている。今、繰り返す余力はないが、次に余力ができたときには再度取り組みたいと思っているところだ。)



 「生きた理念」はつねに完全で、ヌミノースな性質をそなえている。人間による定式化は何も付け加えることができないし、何も取り去ることができない。元型は自律的だからである。問題はただ、人間が元型の豊かさに心を捉えられるか否かである。それを多少なりとも定式化することができるとすれば、それはむしろ、それを意識に統合し、それについて前以上に分別をもって語り、その意味をある程度合理的に説明するということである。しかしそれを定式化できる人間が、自らの感動を定式化できない人間よりもそれを多く、あるいは完全な仕方で所有しているわけではない。知的定式化は、原初の体験の記憶が消え去りそうなときに、あるいは原初の体験の非合理性が意識にとってあまりにも捉えがたいものに映ずるときに、はじめて重要になる。それはひとつの補助手段にすぎず、決して本質的なものではない。(p.327)


ヌミノースとは、宗教的信仰の対象であるヌーメン(神性・精霊)が備える、畏怖させるとともに魅惑する非合理的な性質を表す言葉である。ただ、ここでは元型の話題を離れてもう少し広く一般化したところで思いつくことを書いてみる。ここの叙述は、元型に限ったことではなく、ポイエーシスによってシステムが生成・成立することと、そのシステムを記述することとの関係をかなりよく捉えていると思うからである。

ここで定式化が二次的なものでしかないということは重要である。ポイエーシスそのものにそれが付け加えることはない。(殴られた痛みは、そのパンチがどのくらいの威力だったかを書き記すことによっては何らの変化もこうむらない、みたいなこと。)ただ、一般化した文脈の中におくと、「定式化すること」の有用性や意味についてはユングの評価をそのまま使うと、やや過小評価することになると思う。

実際、定式化をどのように行なうかということは、その定式化をどのように受け取るかということに重要な役割を果たし、それによって行為の方向を変えることがありうるからだ。その意味で、ポイエーシスそのものには変化を与えないが、システムが変容するときにはそれなりの効果を果たしうる。こうした認識がより多く生じるのは、ポイエーシスが一段落して落ち着いたときが多いだろうという意味では、ユングの言うとおりだとは思うが、行為主体が複数いるシステムの場合、それは他人の行為を変化させるという形を通して、発話者や定式化を受け入れた人の行為に間接的に作用しうるのではないか。

ユングの場合、ここでは元型が扱われており、それは心理療法の場を想定しているだろうから、アクターは患者と医者の関係が主として想定されているから、上の捉え方で十分なのだろうが、社会システムを考察対象としている私としては、ユングの定式化では不十分に感じられる。

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