アヴェスターにはこう書いている?
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C.G.ユング 『結合の神秘 Ⅱ』(その1)

投影はつねに間接的な意識化である。それが間接的であるのは意識の側からある抑制がはたらくからである。しかもその抑制はつねに、真の経験の代わりをつとめ、それによって真の経験の成立を妨げるようなもろもろの(伝統的・因習的な種類の)観念による抑制である。(p.117)


なるほど。



 永遠の諸像の生きいきとした現存のみが、心にあの尊厳を与えることができる。つまり、自らの心をあくまでも保持すること、そして自らの心のもとにありつづけるのは意味があると信ずること、人間になるほどそういうこともありうるのだと思わせ、また倫理的にそう決断させるところのあの尊厳である。自らの心のもとにありつづけるときにのみ人は悟る、葛藤は自らに属するのだということ、この分裂は自らの苦悩に満ちた宝であって他人を攻撃することによってこの宝を手放してはならないということ、そして運命が責任を要求してくるとすればそれは己れ自らに対する責任であることを。かくして人は自らの心の価値を認める。なぜなら無価値なものに対して責任が生ずるなどということはありえないからである。しかし人間が自分自身の価値を失うと、彼は飢えた盗賊に、狼やライオンやありとあらゆる猛獣になる。これらの猛獣を錬金術師たちは、混沌(つまり投影された無意識)の黒い水が王を呑み込んでしまうや発動する食欲〔欲望〕の象徴として用いている。(p.139)


責任というものは、よくわかるようで実はよくわからない言葉である。以前からずっとそう思っていた。無価値なものに対して責任が生ずることはありえないというのは、この問題を考える上で参考になりそうだ。

責任というのは、それを責める人々の間の大まかに共有される認識のあり方に関わると私は考えるが、その際、共有される認識において「価値あるとされるもの」がかかわっていると言えそうだ。もっと詳しい議論は機会があれば書くことにする。(ちなみに、私は、主としてウェーバーの責任倫理とのかかわりでこの問題を追及している。だから、その問題を論じる際に、じっくり展開したいと考えている。)



一般に、それについて観念を持ちえないでいる事柄についてことばを通じて観念を持つと、観念と事柄が外見上一致して見えるものである。加えて、自分の知らない二つの異なる事柄は区別できないということもある。(p.144)


象徴を扱ってきたユングならではの慧眼である。

前者の現象は日常でもよく目にする機会がある。よく知らない事柄についての議論であるほど、ある言葉を事実そのものと思い込む傾向。例えば、政界や行政と何かの業者らとの間の「癒着」。これについては言葉によって伝えられる以上のことは、一般の人々はほとんど知らないはずだが、実際のところは「癒着」として語られるネガティブな側面以外のこともありうる。しかし、「癒着」として(のみ)語られることによって、そうした関係を構築することがあたかもすべて悪い行為であるかのように捉えられる、という現象などもその一例である。よく知らない事柄ほど言葉が「事実」だと思われやすい。

また、哲学上の論争でも、実念論(概念実在説)の立場が支持を得られたのは、神学的な領域での議論ばかりが残っている時代のものだった。神学的な対象の多くは日常的な経験において観念を持つことが難しいものが多いので、実念論が優位になりうる領域である。もっとも、普遍論争は教会政治上の背景もあったはずであり、単にこうした観点だけで説明するのは適切ではないだろう。



 心理学的な「対立の統一」は、この事象の現象学を内に含む一種の直観概念である。それは、定義によればわれわれの概念能力を超えるとされるところの何ものかに対して説明上設けられた仮説ではない。というのもわれわれが「意識と無意識が統一される」という場合、われわれはそれによって同時に「それは思い浮かべることの不可能な事象である」といっているのである。なぜなら無意識は意識されないものであって、それゆえそれは把握することも思い浮かべることもできないからである。対立の統一は意識超越的な事象であって、原理的に科学的解明の及ばないところにある。(p.160)


観察者による記述が不可能なポイエーシスの領域について、ユングはしばしば言及する。しかし、ユングも言い表そうとすることを感じ取ってはいるが、適切に言い表せないと感じている。優れた思想家の著述には、こうした洞察がしばしば見られる。

20世紀前半頃の思想家にはしばしばこれが見られる。ベルクソンやカッシーラーは特に優れている。フッサールやハイデガーも幾らかは見て取っているところがあるようにも思われるが、彼らはそれに成功していない。特にハイデガーの方が失敗の度合いが大きいというのが私の現時点での評価である。また、20世紀後半の思想家はむしろこの点でベルクソンらに遥かに及ばないような気がする。

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