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アヴェスターにはこう書いている?
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竹森俊平 『1997年――世界を変えた金融危機』(その2)

 グリーンスパン議長は、ナイトのオリジナルな議論を忠実に紹介している。つまり、経済における不確実性には、「その確率分布を推測できる不確実性(これをナイトは「リスク」と呼ぶ)と、「その確率分布を推測することが不可能な不確実性(これをナイトは「真の不確実性」と呼ぶ)という二種類がある。(p.79-80)


本書のキーコンセプトについての説明。

ただ、こうした区別は「経済における不確実性」に限った話ではないはずであり、社会科学のうち政策科学のような未来への提言を含まざるを得ない分野では、常に関わってくる問題であろう。



 こうして見ると、「不確実性」を前にしての二つのタイプの行動方針をわれわれは考慮するべきだということになる。第一のタイプは、「不確実性」を前にして人々が実際にとる行動である。第二のタイプは、「不確実性」を前にして政策担当者が取るべき行動である。東アジア通貨危機をきっかけにして、われわれの前にぽっかりと「不確実性」のブラック・ホールが開いた1997年以降、われわれはこの二つのタイプの行動方針の調整に苦労してきた。それは、第一のタイプ(人々の行動)があまりに悲観的になる時は、第二のタイプ(政府の行動)はとりわけ積極的になる必要があるといった調整なのだが、それについても後ほど詳しく論じる。(p.105)


ここも本書の議論の中でかなり重要な箇所である。ここで述べられる調整のあり方が本書の主要な主張になっていると言ってもいいくらいである。

個々の経済主体がとる行動と政策担当者(政府)が取るべき行動とは異なっているのに、デモクラシーの下で主権者である民衆は、個々の経済主体がとる行動を政府にも当てはめてしまうので、政府が取るべき行動を理解せず、政府が取るべき行動を政府が取ることができず、悪い結果に繋がりやすくなってしまう、ということだ。

政府に対して「こんなことは民間なら通用しない」と言ってみたり、政府の財政を家計にたとえたりして説明するとき、ほとんどの場合、よほど意識的に避けない限り、この誤りを犯す危険性は高い。

これは金融の領域に関わらず、財政についても当てはまると私は考えている。

まず、本書がこのことを取り上げて言うのは、金融機関が破綻しかけて金融システムにダメージが及ぶ可能性がある場合には、最後の貸し手(政府など)が積極的に公的資金を投入する必要があるということを主張する。しかし、それは必要なことなのに不人気であり、なかなかそれができないため、かえって危険性が増してしまっているというのである。

次に、私がメインブログやこのブログでもしばしば主張している「累進課税による増税」という議論もこの範疇に含まれると思われる。というのも、それは財政の機能を高めるために行なうのであり、財政が積極的な活動をする余地がない現状を変えることを目的としているからである(★注1)。だから、実際にはやるべきなのだが、人々はそれを理解していないので不人気であり、そのことが現実の危険度を高めているという構造は同じである。これについては、今はあまり時間がないので詳論しない。

(★注1)「無駄をなくしてから増税すべきだ」という意見はありうるだろうが、それは幾つかの理由から現状では支持し得ない。その一つを言えば、無駄と言われるものが生じるのは、無駄を生もうとして生じているのではなく、既にあるシステムの流れの中で生じているのであるから、現行のシステムの流れを変えれば生じなくなることが多いと見るからである。(オートポイエーシス的なシステム論の認識枠組みを使わなければ、このことは見えにくいかもしれないが。)



ようするにここでの主張のポイントは、①危機的な状況におけるリスクの認識の急激な高まりが投資家や金融機関の心理を萎縮させた、②彼らが損失回避のための防衛行動を取ったことで資産価格のさらなる下落が生まれた、③それがさらにリスクの認識を一層高めて防衛行動を呼んだ、という①、②、③が繰り返される悪循環が生じたということである。安全第一を考えて個々の主体が取る防衛策が、市場全体を通して見れば、かえって危機と危険の増加につながる。これは金融システムの抱える本質的な脆弱性である。(p.130)


1997年の一連の金融危機についての説明。

この時の危機に限らず、バブルが崩壊するときなどは、常にこの脆弱性が顔を出すといってよいだろう。

 東アジア通貨危機やロシアの債務不履行のような突発的なイベントによって危機認識が高まり、市場から流動性が消えてなくなるという事態に、一体、どのように対応したらよいのだろうか。こういった時こそ、流動性(現金)を供給する能力を持った中央銀行の役割が重要になる。それがカバレロたちの研究の結論である。そもそも、先に紹介したバジョットの古典的な議論も明らかにしているように、中央銀行にあたえられた重要な使命は、流動性の危機に対して「最後の貸し手」として流動性をふんだんに市場に供給することである。しかも、バジョットに言わせれば、このような場合、中央銀行は流動性を惜しむことなく市場に供給しなければならない。
 ・・・(中略)・・・。つまり、「最後の貸し手」がいることによって「システム的な危機」が発生した場合の流動性の心配が薄れるために、金融機関は「通常の危機」の際に流動性を市場に供給するようになる。この結果、「通常の危機」への市場の対応は改善し、「通常の危機」が「システム的な危機」に発展することも防げる。(p.139-140)


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