アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

竹森俊平 『1997年――世界を変えた金融危機』(その1)

 しかし、中央銀行が「最後の貸し手」として、どれだけ効果のある行動がとれるかは、状況に依存する。たとえば、ある国の企業や金融機関がすべて自国通貨建ての債務をもっているならば、自国通貨を自由に発行することができる中央銀行は「最後の貸し手」の機能を十全に発揮できる。しかし、企業や金融機関の抱えている債務が外国通貨建て(たとえばドル建て)のものである場合には、中央銀行の救済能力には限界がある。韓国の中央銀行にドルの発行はできないから。その場合、中央銀行の保有する外貨(ドル)準備が「最後の貸し手」として貸し出せる限界となる。(p.39)


この点では日本は一応、安全な方だと言えよう。



 こういう戦略的な発想を19世紀の経済学者は持っていた。ところが、第2次大戦後から為替レートの固定相場制が続いた1970年代まで、いわゆるブレトンウッズ体制の下での経済学には戦略的な発想が欠けていたようである。なぜ、そうなったかというと、それは一つには、この時期は「固定相場制」の維持という絶対的目標を達成するために、金融、とくに国際資本取引に対する規制が厳しくて、それが結果的に平穏な金融市場を作り出していたという事情があったためである。
 それともう一つ、経済学内部の事情もあったのではないかと思われる。つまり、経済予測の手法が急速に進歩したのがこの時期だ。経済予測の進歩は、完全雇用や低インフレを目指した経済政策を容易にしたが、マイナス面もあった。つまり、経済予測を困難にするような状況を無視して、問題を単純化するという悪しき傾向を経済学に生んだのである。とくに、経済予測を困難にするという理由で「複数均衡」は無視された。しかるに経済を理解するために、無視できない「複数均衡」は厳然として存在する。たとえば、銀行は「取り付け騒ぎ」が生じない「良い均衡」に置かれる時もあれば、「取り付け騒ぎ」が生じて破綻する「悪い均衡」に置かれる時もある。どちらの均衡に置かれるかは、市場心理に依存し、経済モデルで予測することは不可能だ。しかし「予測」をあくまでも経済学の第一の目的とするならば、「良い」、「悪い」という「複数均衡」のことは忘れて、「良い均衡」だけが存在するという前提で研究を進めなければならない。
 しかし、1973年にブレトンウッズ体制が最終的に崩壊し、主要国の変動相場制への移行と同時に、国際資本取引の自由化が進むと、経済学の傾向もがらりと変わる。それ以降、国際資本市場は時に大きな動揺をきたすようになり、「取り付け騒ぎ」や金融機関の経営破綻を経済分析の上で無視することも難しくなる。そうなった時に、国際資本取引が活発で市場が時に動揺をきたした19世紀の経済学者の考え方が、新たな注目を浴びたというわけである。(p.42-43)


この部分は、本書で一番共感できたところかもしれない。

ブレトンウッズ体制の下とそうでない状況(20世紀前半以前と73年以後)とで経済学の様相が変わった理由について2つのことが言われているが、私の見解では基本的には第一の理由が主たるものであると考える。なぜなら、第二の経済学の内部の事情というもの自体が第一の実社会の動きを反映したものだと言えるからだ。つまり、ブレトンウッズ体制→経済学における経済予測の手法の進歩(流行)という因果関係があると見る。

この文のもう一つのポイントはブレトンウッズ体制の下で展開された経済学は、経済予測に都合の悪いものを無視したという指摘である。幾つかの社会科学の分野を見回してみると、経済学という分野は本当に偏狭だという印象を受ける。仮定を厳しく置きすぎる傾向があるのだ。その動機として見えることの一つが、数式で表現できるようにするためだったりする、というのが私が思っていたことである。そして、数式で表現されるということと上で書かれている予測ということは――完全な対応関係とは言わずとも――深く関わっていると思われるので、上の部分を読んでその通りだと思ったわけである。

本書のキーワードは「ナイトの不確実性」(確率分布が推測できない不確実性のこと)なんだが、それに類するような不確実性は他の社会科学の分野だけでなく自然科学の分野でも30~40年くらい前から注目されてきたことであって(例えば、オートポイエーシスやカオス理論や複雑系などに関連する問題系はその代表だろう。これらも一挙に広まったのは80年代頃だろうが。)、この程度のことが今頃、新書で主題として扱われているという時点で経済学は他の学問の動向と比べて、「思考の枠組み」が相当古いと言ってよいのではないかと思っている。

まぁ、それはさておき、この箇所で最も私が共感したのは、ブレトンウッズ以前の19世紀の経済学から今の経済学は学ぶことがある、注目する理由がある、という点である。社会の状況(経済の状況)が似ているから、似た状況下で考えられたことには某か参考になるものがあるということである。

これは経済学に限らず言えそうであり、私もこの考えが強くなっていたところだった。例えば、このブログでも先日取り上げた神野直彦氏などはシュムペーターの財政社会学を重視している。また、先日雑誌で特集が組まれたマックス・ウェーバーについても姜尚中の批評を紹介したが、それも同じことである。「金融や資本取引の自由化」は「政治と経済の結びつきが深まること」と表裏一体であると私は捉えるが、こうした結びつきはまさにブレトンウッズ時代の経済学が捨象してきたことであると同時に、それ以前の時代には論じられてきたことなのだから。

ちなみに、金融自由化と政治経済の結びつきが深まるのは、次のような理由による。金融が自由化された世界の中で、ある国の政府が生き残る(有利な位置を獲得・維持する)ためには、自国の企業を生かさなければならず、そのために機会がある毎に自国の企業に有利なルールを設定しようとする誘因が働く。また、各企業はグローバルな競争での生き残りのために、あらゆるリソースを動員することを余儀なくされるが、その際、当然のこととして政治的なリソースも最大限に活用される。それは上述の政府の意向とも合致するため、政府はグローバル企業のエージェントとなる。これはほとんど不可避的である。経済は経済で独立した活動ではないし、政治・外交もそれだけで独立した活動ではないのだから。(むしろ、こうした区分は学問が専門分化していく過程で、それぞれの分野の分析を容易にするために恣意的に分けられたものである。)
スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/281-b5558794
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)