アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

C.G.ユング 『結合の神秘Ⅰ』

錬金術師たちはごく少数の例外を除いて、自分たちが心の構造を白日にさらしているとは露知らず、あくまでも物質の変化を解明していると思い込んでいたので、心理学的なまなざしや感受性にわずらわされることなく、彼らの心の背景にある諸事象、意識的人間なら恐れしりごみするような諸事象のヴェールをはいだのである。(p.20-21)


ユングがなぜ錬金術の言説を研究対象にしているのか、その理由がよくわかる一節である。

ユングの場合、こうして錬金術師によって描き出されたものは、物質の変化ではなく心の構造が反映したものだと考えているようだが、ある意味では錬金術師達の描き出したものというのは、「観察の理論負荷性」の議論によっても捉えられるように思う。

ユングとの違いは、文化に関わらず人間に普遍的に備わったものから来ているのか、そうでないのか、という点であろう。もちろん、ユングはこの対比では普遍主義の立場に立ち、理論負荷性の議論は歴史主義的な立場に立つものである。



最近ではさらに、伝統的な誤謬に生物学的ないしは唯物論的と自称する見解が加わって、心の軽視に拍車をかけている。この新たな見解は、今日までのところ、人間を動物の群以上には、そして人間の諸動機を空腹、権力衝動、性衝動以上には理解してこなかった。何十万、何百万という数としての人間のことしか頭になく、むろんその場合問題となるのはもはや、その群は誰に属するか、その群にどこで牧草を食べさせるか、子牛は十分産まれるか、それに応じた量の牛乳や肉が生産できるかということでしかない。膨大な数を前にしては、個についてのどんな思考も色褪せてしまう。というのも統計はあらゆる一回性、個性というものを消し去るからである。かくも大きな力と、かくも大きな惨めさとを前にしては、個人はそもそも存在することすら遠慮したくなる。しかし、真の生命の担い手は個人である。人生の幸福を感じうるのはただ個人のみであり、徳を、責任を、あらゆる倫理性をもつことができるのもただ個人のみである。群や国家はそのようなものは何ひとつもたない。個別存在である人間のみが生きており、これに反して国家は、群を分類し整理するためのシステム、単なる機械にすぎない。すなわち、人間的事象を個別的人間を差し引いて巨大な数としてしか考えず、こうして自分を一原子にしてしまう者は、自ら盗人、盗賊と化しているのだ。集合的思考という癩に感染し、「全体主義国家」という名の病める牛舎にとらわれた囚人と化しているのだ。現代という時代は、「猛毒の悪意」arsenicalis malignitasによって人間が自己自身の存在に到達することを妨げる「生の、卑俗な硫黄」をたっぷり含み、たっぷり産み出している。(p.208-209)


本書は1955年に出版されたものだから、この批判は当時始まった冷戦の東側世界の共産主義的な全体主義に対するものであろう。

しかし、面白いことに、共産主義とは無関係に、現代の日本の国家主義に対する批判にもなっているように思われる。少なくとも政府や与党の「お偉方」のものの考え方に対する批判として的中する内容が極めて多いと言える。

個よりも全体(としての国家)を優先する考え方に対する批判である。とりわけ興味深いのは、「人生の幸福を感じうるのはただ個人のみであり、徳を、責任を、あらゆる倫理性をもつことができるのもただ個人のみである。群や国家はそのようなものは何ひとつもたない。」という指摘である。

これは少し前に流行った(?)「品格ある国家(国家の品格)」とか「美しい国」といった言説に対して投げかけることができるものである。


また、前段の「問題となるのはもはや、その群は誰に属するか、その群にどこで牧草を食べさせるか、子牛は十分産まれるか、それに応じた量の牛乳や肉が生産できるかということでしかない。」といった指摘なども、少子高齢化社会だとか合計特殊出生率がどうしたという議論、さらには社会保障費が増えていくとかその種の議論に対する批判としての力を持っている。

もちろん、統計的なデータを用いて政策を作っていくことは重要なことであり、必要不可欠だといっても良い。しかし、その際、支配者の視点だけで見ると個々の人々が生きていることは忘れ去られがちである。そうではない普通の生活者の視点がそこに入り込み、普通の人・相対的に弱い者の生活を生かすものとして計画されなければならない。

私はそう考えているのだが、私の立場から見ると、ユングの批判は支配者の立場からの視点――これだけが先行すると全体主義ないし国家主義的になる――に対する補完的なものとしての有効性を失っていない。

スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/280-5d2bcdbf
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)