アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

神野直彦 『財政のしくみがわかる本』(その1)

 政府の経済は、ほかの経済とちがうところがあります。家計の経済は家計の構成員が決定し、家計の構成員のためにおこなわれる経済ですし、企業の経済も企業の構成員が決定して企業の構成員のためにおこなわれる経済です。ところが、政府は構成員が社会全体なので、企業や家計をすべて含んだ経済をまとめるために行なわれる経済なのです。つまり、政府はミクロの経済主体であると同時に、マクロの経済主体でもあるということです。(p.14-15)


財政に関する俗論の誤りの多くは、家計や企業とのアナロジーで財政をとらえることによって、ここで言われているところのマクロの経済主体である点を無視してしまうところから生じている。マクロの経済主体であるという考えを、考慮に入れるか入れないか、という違いはきわめて大きな違いをもたらす。

企業や家計の経済が活発であるとき(好況時)は財政の活動は不活性でよく、逆に企業や家計の経済が活発でないとき(不況時)は、財政がそれらを作動させる働きをする必要がある場合がある。そうしたマクロ経済の調整をするという役割があることによって、企業や家計とは全く異なった性格をもつようになるのである。

財政がマクロの経済主体であるというところからは、さらに重要な帰結が得られるが、このブログでは、それは本文の関連箇所へのコメントとして述べることにする。



 1920年代、世界全体が不況になりました。日本でもイギリスでも、郵便局のほうが安全だからと、銀行から郵便局に預金が流れていきました。すると、日本でもイギリスでも、銀行業界が「郵便貯金の金利を引き下げろ」という要求をしました。
 労働者の力が強かったイギリスでは、その要求は門前払いされました。ところが、日本では銀行業界の言いなりになって、郵便貯金の金利を引き下げました。時代が移って1980年代、また郵便貯金にお金が集まってくると、銀行業界は「郵便局を民営化しろ」と言ってきました。そうするとまたも銀行業界の言いなりになって、日本は民営化するのです。
 1920年代も80年代も、日本の政府は、「民主主義はどうなるのか」ということは考えませんでした。最近では「地方債にしても市場の統制が重要なのだ。市場に統制してもらったほうがいい」と、ものごとの原点をとりちがえています。民主主義が崩れてしまうことが目に見えているのにです。
 市場では、人々は購買力に応じて発言力をもっているので、金持ちの言いなりになることになるからです。
「それは民主主義ではない」と言わなくてはいけないのに、マスコミも国民もいっせいに、「市場の声に逆らわないことがいいことだ」と言っていることに、私は民主主義の危機を感じています。(p.22-23)


「市場の統制」というレトリック(「競争がないとモラルハザードがおこる」というバージョンもある)に基づいて行なわれることは、結局のところ、市場への支配力が強い者(金持ち)の発言力の影響下に置くことにすぎないという現実を見事に言い当てている。



民間の経済主体である家計や企業では、入りが決まって出はあとから決めるという原則で動き、財政はそれとは反対の原則で動くことになります。それだからこそ、市場経済と財政とから成り立っている国民経済の動きを、財政が事実上コントロールすることができると考えられているのです。(p.35-36)


財政学をちょっとでもかじった人間なら誰でも知っている「量入制出」と「量出制入」という原則について。

しかし、思うに、なぜこのように異なる原則で運用されるべきなのかを説明した記述はあまり見かけない。私としては、本書のこの箇所の説明でもまだ説明が足りないと感じている。

私は、財政が「量出制入」の原則に基づくのは、最低生活保障が行政の最も基本的な仕事だからだと考える。絶対に必要なことをするから、まず、なすべきことが決まるべきなのであり、それに続いて、必要なだけの歳入を確保しなければならない、という順序で決まるのである。

付け加えれば、行政が最低生活保障をするものであるということは、上述のように財政がマクロ経済主体であることと表裏一体である。企業や家計は、その経済主体本体と個々の構成員との生活を成り立たせるように機能する。財政の場合は、そのマクロ経済主体としての財政にとっての構成員は、全国民ということになるのである。そして、ミニマム保障は、個人の側から見れば人権、特に生存権の問題であると考えてよかろう。



予算の審議について。

 日本の場合にはわずか二カ月で審議が終わり、めったに四月を越えて審議が延びるということはありません。アメリカはしばしば半年ぐらい越えます。それは、予算案を編成している過程で、国民のさまざまな利害が盛り込まれるからです。日本の予算政治の特色は、予算編成過程で国民が各省庁に陳情・請願行動をして、この長いあいだにさまざまな要求が盛りこまれることです。(p.44)


公開性の低いところで予算が決まるのはデモクラシーの機能としてはよろしくないというべきだろう。原則としては国会審議の比重を増やすべきだということはできそうだ。ただ、今の国会は選挙制度の影響であまり多様な価値観が反映されないようになっているので、その点が克服されないといけないが。比例代表制を基本とするような、多様な価値観を反映しやすい選挙制度になっていれば、国会審議をしっかりやるべきだと言えるのだが…。
スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/270-c3d0069a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)