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アヴェスターにはこう書いている?
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安田雪 『ネットワーク分析 何が行為を決定するか』(その2)

 構造同値の関係にある人々は、他者から見れば相互に代替可能であるため、したがって自分と構造同値である人々の資質や特性のうちで、他者にとって魅力的に見えるであろうものを模倣したり追随したりする傾向があると指摘しているのです。
 バートの研究が示唆しているのは、直接的な結合関係やコミュニケーションが存在しない人々のあいだでも、媒介する第三者を通じて、ネットワークの連鎖が態度の変容をもたらすことがありうるということです。つあんがりが直接見えない部分にも影響を与えあうメカニズムが存在することを指摘したのは、ネットワーク分析がコミュニケーション研究とは異なった視点をもつためです。ネットワーク分析ならではの研究成果と言えるでしょう。(p.156)


「構造同値」の関係について本書で展開される議論は、かなり興味深い内容を含んでいた。本書から得た最も大きな収穫はこの概念に関するものであった。

シンクロニシティだとか、あるいは古い言葉だが「時代精神」といった議論なども、一部はこの構造同値の概念を用いて説明できるものもあるのではないかという気がする。これらも直接結合はないノードが、(第三者を通じて)同じように振舞うという現象である点では同じである。(シンクロニシティの場合は第三者は想定されていないかも知れないが、視点を変えれば恐らく第三者を発見することは可能であると見る。)



 図21は、日本と米国の産業について、1985年のネットワーク優位の程度をX軸に、利益率でみた産業の市場成果をY軸にとった図です。産業間ネットワーク内で不利な位置を占めている産業の利益率は明らかに低く、有利な位置を占めている産業の利益率は、相対的に高い傾向が認められます。産業の業種や規模を一切考慮せず、ネットワーク特性のみに注目しているだけなのです。それにもかかわらず、これほどの差が生じています。
 ・・・(中略)・・・。
 従来の経済学の考え方である特定の財に対しての「需要と供給」の概念に加えて、ネットワークの連鎖までを視野に入れて分析を行なっている点が、ネットワーク分析を市場に適用するときの独特の特徴です。新古典派の経済学では、特定の財やサービスを必要としている人と、それを供給できる人との関係が価格を決定するとされ、いわば消費者と供給者の関係のみに焦点がおかれてきたわけです。それに対して、ネットワーク分析の視点は、供給者と消費者のあいだの関係のみに注目するのではなく、さらに、供給者間の関係消費者間の関係までをも考慮に入れている点が大切なのです。それが、市場をネットワークとしてとらえる試みの新しさであり強さです。(p.177-179、本文でゴシック体表記の部分には下線を付した。)


この説明は、新古典派だけでなく、経済学全般が見落としがちなポイントを的確に突いていると思われる。すなわち、経済学では消費者間の関係や供給者間の関係が無視されている。

上の引用文にある「構造同値」もこうした関係の一つである。構造同値であれば、それらのノードには競合関係・競争関係が生じやすいが、そうでなければ、ノードが複数あっても競合関係・競争関係にはならない、といったことが、こうした関係から導き出される。



 第二に、日米の取引慣行の比較においてしばしば指摘される、「日本の取引関係がパーソナルな性格をもち、安定して長期的に継続される傾向」は、日本においては産業の集中度が高く、集中度の高い産業が相互に取引の相手産業にマイナスの影響を与えあっているという事実から説明することができます。
 この傾向を、それぞれの国の国民性や文化的要因から説明する立場もあります。しかし、これは、日本の産業構造の特性から生じた合理的な選択であるとする解釈のほうが妥当だと思われます。市場集中度が高く、生産に必要な原・燃料の購入先も、自らの生産する製品やサービスの販売先の数も限定されている日本では、取引は長期的にならざるをえないのです。安定した長期的取引は、売り手と買い手のあいだにパーソナルな関係を育みます。(p.194、本文でゴシック体表記の部分には下線を付した。)


いわゆる「文化」とか「国民性」と呼ばれるものは基本的にこうした社会的な構造から規定されて形成された慣習にすぎないと考えるべきだというのが私の持論でもあり、著者の考え方と同じである。

例えば、日本に「固有の文化」だとか、「日本人の国民性」だとか、こういう「しょうもないこと」を言う輩は結構多いが、それが何らかの固有のものであると考えるのは誤りである。同じように「伝統」とされるものの多くが大した歴史を持たないことは様々な歴史研究が実証しているとおりである。

社会関係が変われば、それに応じて生活様式や人の行動様式も変わらざるを得ず、また、そうやって生活や行動の様式が変われば社会の構造的な関係も「ジョジョに奇妙に」変わっていくのである。その仕組みを見ることができない輩が、「固有の文化」とか「国民性」などという実体化をしてしまうワケだ。そんなわけで、私は、これらの言葉を、無批判的に使った時点で「恥」だと思っているくらいだ。



 しかし、世界システム論と従属論には、どの国がどの位置を占めているのかを客観的に示すことができないという問題があったのです。すなわち、個々の国々について、その国が中心の位置にいるのか、周辺的な位置にいるのか、準周辺的な位置にいるのか、を客観的に割り振ることができなかったのです。(p.198)


世界システム論に対する批判としては、比較的スジがいいものである。ウォーラーステインが言っていたとおりの分類にはならないだろうが、本書でこれに続いて示されているネットワーク分析の研究者による分類が可能であったのと同じように、指標さえあれば分類は可能である。

なお、私見では歴史社会学理論としてのウォーラーステインらの世界システム論に対しては、前のエントリーで引用したような問題点も指摘されるべきだと考えている。すなわち、資本主義世界経済としての近代世界システムの生成と消滅について、世界システム論の枠組みでは語ることができないということである。

生成についてはウォーラーステイン自身、比較的初期の頃から説明しようと試みているが、十分うまく言ったとはいえない。そして、それ以上に問題なのは、90年代になってからのウォーラーステインの議論であり、特に、現在が別のシステムへの移行期であるとし、そこでカオス理論的な表象を用いながら、システムの以降を抽象的かつ曖昧に述べ続けたことである。このことは世界システム論の枠組みによって世界システムの消滅は語れないことを意味しているというのが私の見方である。

生成よりも消滅が問題なのは、このような理論では、未来に向けての運動(行動)の指針を人々に与えることができないからである。つまり、どちらも状態の把握が出来ていない点では同じだが、生成の局面は説明できなくても、それは既に過ぎ去ったことだからいいが、消滅の局面はこれからどのようになるのかという予測を含んでおり、このような未来への見通しを与えることは、マクロな理論が果たすべき一つの役割だと思うからである。

私としては、こうした欠陥を補うものとして、オートポイエーシスや複雑ネットワーク研究に期待しているところである。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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