アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

安田雪 『ネットワーク分析 何が行為を決定するか』(その1)

 ここで述べたいのは、人脈を活用するということにまとわりついていた、どことなくアンフェアで、「自らの努力で得るべきものを他者に依存して獲得した」というような暗黙の印象を、「ネットワーキング」という言葉は吹き飛ばしてしまったということです。「人脈を活用する」といったときに連想される、どこか冷徹で否定的で計算高いイメージが、「ネットワークを活用する」と表現されることによって、自由で明るくかつポジティブな感じに変わってしまうのです。その最大の理由は、「ネットワーク」を、何かそこから得る資産としてのみ扱うのではなく、そこに自分も何らかの付加価値を付け足すことができる、他者から自分が与えられると同時に、他者に自分も与えるのであるという点を強調したことです。(p.38-39、本文でゴシック体表記の部分を強調した。)


政治の世界でネガティブなイメージがつけられてしまった「派閥」という「ネットワーク」がある。一般的なイメージでは、これを壊すことは良いことだとされているフシがある。しかし、仮にそれを壊しても、政治家を繋ぐ社会的なネットワークは常に必要であり、逆に、社会的なネットワークがないとすれば、政治というものは成り立ちえない。

したがって、派閥を壊したら別の政治家ネットワークができるだけだということを十分に承知した上で、適切な手を打たなければならない。ところが、世間では単にイメージが悪いというだけでそれを否定しようとするだけになっている。ネットワーク分析なり複雑ネットワーク研究なり、そうした基本的なパラダイムをもっていれば、世の中に跋扈している「派閥批判」の多くが欺瞞に満ちたものであることがわかると思うのだが。

私の見立てでは、派閥が壊れて政治家がアトム化されていくと、その後に現れるのは、今、様々なところで設立されている「議連」によるネットワークである。そして、議連というのは、建前上は政策なり個別的イシューによって集まっていることになっているが、実際は、政治化同士の人脈に基づいて形成されている面が強いと思う。そして、政界に多くの人脈を持つ者とは誰かといえば、世襲議員(二世・三世議員)であり、そうした活動のための資金力があるのは誰かといえば、これも同じく世襲議員に有利ではないかと想定している。したがって、派閥を解体した後に現れる政治家の秩序は、形式上は「議連政治」であり、その内実は世襲議員が権力の中枢を握る体制ということになる。こうした公算が高いと見ている。

もっとも、派閥がどうしたという話は、自民党内部の話だから、自民党が政権から降りれば、その影響力は非常に小さなものになるが、仮にそうだとしても、下野した後に再度政権の座に戻る可能性はありうるし、政界再編があった場合にも、派閥の力が弱ければ議連のような人脈が単位になりやすく、議連が単位になるならば、その中枢を握っている世襲議員は有利な位置におかれることになる。こうした傾向の弊害を考えに入れると、単純にイメージが悪いものを叩くだけではダメだということになる。

差し迫った案件ではないので、この問題については、今は雑駁なメモだけにしておく。



 さらに、ネットワーキングという行為においては、行為する人、すなわち、強く力のある人が、行為をおこなったまさにその結果として、自分をバルネラブルな立場においてしまうという、二つ目のパラドックスがあります。何らかの行為をすればするほど、その人は危ない状況に身をさらすことになるということを、金子はボランティアを論じつつ、「困っている人を見過ごせばそれですむところを、あえて自分から関わりあいになることで、自分をあやうくする」「情報を出せば出すほど、文句をつけられたり、非難されたり、面倒なことを頼まれたりする」と表現しています。(p.39-40)


個人的な経験からよくわかる事態だ。あまりにもぴったり嵌りすぎているくらいだ。このパラドックスを回避する完全な方法があるなら是非使いたいと思うのだが…。



 両者の明らかな違いは、そのアプローチにあります。ネットワーク分析は、行為者の行為の決定要因を、その行為を取り囲むネットワークに求めるため、構造が安定したネットワークについての分析には威力を発揮します。ところが、ネットワークの生成と崩壊の過程については、十分に説明することができないのです。・・・(中略)・・・。
 一方、ネットワーキングについての議論は、ネットワークの生成とその機能については活発な議論を展開しますが、生成され安定したネットワークの構造についての議論を十分にしているとは言えません。それは、生成されたネットワークの機能がすべて、ネットワークを構成する個々の行為者の意識(他人を拘束するな、対立を容認せよ、やわらかに連結せよ……などなど)に依存しているとしてしまうためです。ネットワーク分析の視点は、ネットワーキングによって作り出されたネットワークの内部構造を把握し、その機能を考えるためには有効なものであると考えられます。一方、ネットワーキング論は、ネットワークの生成・崩壊といったネットワークの動的側面を考察するためには非常に有効だと言えるでしょう。(p.41-42、本文でゴシック体表記の部分には下線を付した。)


本書は約10年前(1997年)のものなので、ネットワーク研究の進展の度合いから言えば、今とはかなり様子が違っていると思われる。実際、本書の議論の多くは、構造主義的すぎるきらいがある。しかし、この2つの議論の対比は、問題の整理としては役立つものを含んでいる。

私の場合、この生成や消滅の問題を解決するのはオートポイエーシスに求めたいと思っている。ネットワークの生成・消滅はオートポイエーシスで説明し、それが構造を形成するところもこれで説明できると考えている。しかし、このシステム論の言語は「一般向けの言葉」ではないと私は考える。したがって、それを他者に伝達する際には、言語を変換しなければならず、そのときには複雑ネットワーク研究におけるネットワークを観察したり、性質を記述するための用語が役立つのではないかという見通しをもっている。そういう関係のものとして捉えている。

スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/267-7ffb2c7f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)