アヴェスターにはこう書いている?
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『現代思想 総特集 マックス・ウェーバー』(2007年11月臨時増刊)(その2)
三島憲一 「多様な近代の多様な交錯」 より

「自由」は、マルクスも指摘するとおり、フランス革命以前は「特権」を意味した。つまり、自分の狩猟区で狩りをする支配者の特権である。(p.25)



この「自由」は、まさに「新自由主義」のイデオロギーによって実現される「自由」である。少なくとも、それと極めて近いものである。新自由主義のイデオローグ(小泉純一郎や竹中平蔵など)が、人々に訴えるときには、これとは異なる、フランス革命以後の【自由】を語って広範な支持を得ようとするが、実際にもたらされるのは、まさにこのフランス革命以前の「自由」である。

すなわち、グローバルな資本家が、自分の「狩猟区」で労働者や消費者という獲物を狩る特権である。狩猟をする領主以外の者は、ある者(安く買い叩かれる労働者など)は「狩られる動物」でしかなく、またある者(リストラされる労働者や社会福祉の削減によって生活の困窮がもたらされる人々、さらには、交渉上、不利な立場におかれるため経営が悪化する中小企業の経営者)は、その狩猟区から排除されて生きる術を奪われる。



野口雅弘 「信条倫理化する<保守> ウェーバーとマンハイムを手がかりにして」 より

 ウェーバーの『支配の社会学』には、権力の獲得を最大の目的とし、プログラム(綱領)にこだわらない「主義なし(gesinnungslos)」政党や、あるいは名望家政党と並んで、「プログラム政党」、ないし「世界観政党」という概念が出てくる(WuG 669/456)。これは現代の政党研究においても用いられ、「プラグマティズム政党」の対極にあって、現実的可能性や権力への接近性よりも原理、原則の純粋性を優先するタイプの政党であり、ウェーバーの信条倫理とつながるものである。したがって通常この語は、極左政党や原理主義政党に対して適用され、保守主義の政党と結びつくことはなかった。
 しかし冷戦の終焉以後、こうした「プログラム化」の傾向が進んでいるのはむしろ<保守>の側である。アメリカの「ネオコン」にしても、日本の「構造改革」にしても、ある特定の原理を明確に定立することが目立っている。こうした傾向は「革新」という自らに先行する勢力の不在という事態と密接に結びついており、そうであるから非妥協的で、強硬な姿勢がともなわれることになる。(p.123-124)


ようやくこうした傾向が行き詰まりを示しつつある、というのが日本やアメリカの政治情勢の現状というところだろう。日本では原理主義的な色彩が強かった小泉と安倍の両政権から福田政権に変わり、福田を総裁とする自民党は「権力の獲得を最大の目的とし、プログラム(綱領)にこだわらない「主義なし(gesinnungslos)」政党」という、これまで続いてきた(そして、90年代前半の下野以降、いっそう顕著になった)自民党の基本的なスタンスに戻りつつある。もっとも、この方向で落ち着くかどうかは分からないが、差し当たり、一つの臨界点に達したことは間違いない。

今の日本の場合、自民党と民主党は「主義なし」政党に近い。それが二大勢力をなしているという状況である。いずれも権力を握ることを至上の目的としており、その勢力が拮抗してきたから、常に政局沙汰になるわけだ。しかし、そんな誰が権力を握るかなんていう二次的なことには一般庶民は関心などない。政治が何をしようとしているのかが、有権者から見て分かりにくいのは、こうした「主義なし」政党による二大政党化が進んだ状況と関係があるのだろう。

ただ、その基調の一つとしては、やはり引用文で指摘されているような「プログラム政党」化というものはあり、その原理主義的ないし信条倫理的な性格は消えてはいない。その点には有権者として警戒が必要である。なにせ、信条倫理というのは、その人が正しい(価値がある)と信じることをすることがよいことであり、その結果生じたことには責任を負わない(神のみぞ知る)という代物なのだから。



野口雅弘 「信条倫理化する<保守> ウェーバーとマンハイムを手がかりにして」 より

まず、野口氏は、マンハイムの「保守」の概念を次のように説明する。

マンハイムは、初期ロマン主義に由来する「反省」概念を、さまざまな政治的立場が乱立し、争いあうワイマール時代の政治状況を意識しながら、他の立場との対比において、とりわけ「進歩」を唱える運動に直面して、それとの緊張関係のなかで自らの立場性をとらえ返すという意味で用いているのである。(p.119)


他に幾つかの説明を経た上で、次のように性格を規定する。

 こうして保守主義は、思弁的、抽象的、あるいは急進的な革命運動に対抗し、それを「反省」することで成立するものであるから、具体的で、現実的で、そしてモデレートな態度を特徴とすることになる。(p.120)


ところが、上で引用したように、ポスト冷戦時代の<保守>政党はプログラム政党化(世界観政党化)しており、それはかつての保守とは異なっていることが指摘される。

その上で次のような指摘があるのだが、なかなか興味深いものがある。

もちろん冷戦の終焉以後の世界においても、政治的な対立がなくなったわけではない。しかしここでの<保守>の闘争は、カール・シュミット的な意味での「闘争」ではない。「友・敵の区別の存在しない世界にあっても、おそらくはたいそう興味深い、さまざまな対立やコントラストはあるであろう。ありとあらゆる競争や駆け引きもあるかもしれない。しかしそこには、それを根拠にして、人が命を犠牲にすることを要求されるような、そうした対立は原理的にありえない」。『政治的なものの概念』の有名な箇所において、シュミットはこのように述べているが、「悪の枢軸」「抵抗勢力」「ごろつき」、あるいは「社会のくず」などとレッテル貼りされた、あまりに非対称的な相手といくら戦っても、それによって「命」は脅かされないし、また闘争をくぐることで自らのあり方に深刻な修正、つまりリフレクションが生じるわけではない。「プログラム化」が他者の顔色を見ることの拒否であり、したがって相互作用の切断を意味するとすれば、そこには保守主義を成り立たしめていた反省の契機は存在しえないのである。(p.124)


付け加えれば、自民党や自称「保守」の人々が、しばしば目の敵にする「日教組」なんかも、この類のものであろう。「革新」勢力がなくなったために、「保守」の側は、逆に自らの存在を維持できなくなってしまい、見せ掛けの「敵」をつくったり、「原理主義」に向かう契機となっている。なお、革新勢力なしに保守主義勢力が自らを維持できない理由は、現状の社会における「本当の問題」に対処する術がないからである、というのが私の見るところである。



野口雅弘 「信条倫理化する<保守> ウェーバーとマンハイムを手がかりにして」 より

 Gesinnungsethikの訳語としては、脇圭平訳の『職業としての政治』においてなど、一般に「心情倫理」が用いられることが多い。しかしGesinnungsは、当然一定の強い情念がともなわれるとはいえ、「心情」としてしまうと、ミスリーディングである。ちなみに、英語でも訳語は一定しておらず、ethic of conviction, ethic of single-minded conviction, ethic of ultimate ends などが用いられている。ただいずれにしても、「心情」というよりは「信条」に近い。このことはgesinnungslosの英語訳として通常用いられる語がunprincipled であることからも裏付けることができよう。(p.131)


野口氏が心情倫理ではなく信条倫理という訳語を用いる理由の説明だが、なかなか説得力がある。私としては、今まで一般的な用法にならって「心情倫理」を用いてきたのだが、微妙に迷いもあるにせよ、今後は私も信条倫理という用語を使おうかという気になってきた。
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