アヴェスターにはこう書いている?
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『現代思想 総特集 マックス・ウェーバー』(2007年11月臨時増刊)(その1)
姜尚中 「ウェーバーの可能性」より

 最後に、資本主義です。かつて大塚史学があり、そしてゾンバルトとかテンニースとかの資本主義起源論争がありました。一言で言うと、大塚史学では、産業資本主義というのは、賤民資本主義とは違う、つまり、軍事に寄生したり、政治に寄生したりするというような、金融資本に寄生したものではなくて、物を生産する、そこにエートスの根拠を置きました。これがウェーバーが言っていた資本主義だということです。
 これはそうなんだろうけど、ウェーバーが言っているのは、今の我々の時代にはその資本主義というのは影も形もなくて、まさしくゾンバルトがいうような意味で賤民資本主義なわけです。グローバリズムの中で、それが雛形になっている。これは、どう考えたらよいのか。
 つまり、資本主義の起源において、明らかな逸脱形態か、あるいは大塚さんの言葉で言うと前期資本だったものが、今は地球的規模の資本主義の本物になっているということです。だから、今の金融サービスを中心とする資本主義の価値構造は、ウェーバーを通じてどう説明できるのか。
 起源論争においては、明らかにそういう資本主義をウェーバーは、近代産業資本主義とは違うものとしてカテゴライズしたけれども、今はそれが主流になってしまっている。それに対抗するために何があるのか。国家の役割と機能が変質して、分かりやすい形で国家が資本のエージェントになっている。そうすると、もう守るものがない。今のナショナリズムは国民無きナショナリズムだから、これほど分かりやすいものはありません。(p.17-18)


ウェーバーによれば「近代西欧」以外の時代と地域には、「近代産業資本主義」は自生的に生まれなかったとされる。しかし、「資本主義」というものは、それ以外の時代と地域にもあったとされ、それらにも様々なタイプがあるとされる。それらの違いを、分かりやすく少し噛み砕くと、近代資本主義が「産業」資本主義であって、「農業」資本主義や「商業」資本主義や「金融」資本主義のようなものではないことであると考えられたということだ。しかも、その「産業」が政治や軍事に寄生していないところに一つのポイントがある。(ウェーバーのテクストでは、「家産官僚制」と「近代官僚制」の違いといった概念的な区別や、「計算可能性」や「合理性」などの用語を使って、これらのことが――直接的および間接的に――巧みに説明される。)

だから、ウェーバーや大塚久雄の考えでは、「近代産業資本」が未だ発達していなかった、別のタイプの資本主義から、近代西欧だけが、技術的には(「効率性」や「透明性」のような点では)、「より優れたもの」と彼らには考えられている「近代産業資本主義」が成立したことになる。

彼らの議論では、資本主義は、こうやって展開ないし発展してきたとされている。しかし、姜尚中が言うにはは、今の資本主義は彼らが言った資本主義ではない。つまり、ウェーバーや大塚が近代以前の時代、また、西欧以外の地域にあった資本主義の一形態である賤民資本主義が現代のグローバルな資本主義の姿であるという。そして、これを分析するときに、ウェーバーの議論は何か示唆しうるものを含むのではないか――この判断の背景には、近代西欧資本主義以外の資本主義にも論及したものがあることが背景にあるだろう――というのである。

このように言われてみれば、確かに、分析のための概念的な準拠枠を持ってくることくらいはできそうだ、という感じがする。(そのまま使えるわけではないが。)その点で参考になった。私の見るところでは、この点で最も重要なテクストは恐らく『古代農業事情』だろう、という見通しだ。それを補完するものとして「支配の社会学」とか「支配の諸類型」として訳出されている『経済と社会』の政治社会学的な草稿は役立つのではないか。

姜尚中の次の言葉は、こうした試みに対して後押しするものであり、私も同感である。

市場のグローバル化というのは自然発生的なものではなく、政治的なプロジェクトです。これを経済学で説明しようとするからおかしいのです。
 そういう点では、むしろウェーバーの方が見方としては肯定的なものを引き出せる面があります。そういうところがウェーバーの可能性です。ウェーバーというのは全てがトルソーだったんですね。一つとして完成されていない。厳密な解釈をやっていても始まらない。むしろトルソーから今起きている事柄をどれだけ引っ張ってきて、そこに付加し、考えていけるかがウェーバーの意味です。
 ウェーバーは非常に使い道がある。もう一度ウェーバー・ルネッサンスが来ると思いますね。(p.19)



私の場合は、次のように考える。

政治と経済は分離すべきだと考えられているし、学問分野もそのように分かれているのだが、現実はこれらの関係は深まっている。資本を活用できる人間が、政府を利用して自らの利益を最大化しようとしており、デモクラシーが制度としては存在していながらも、政府の決定は選挙民よりも資本家の意向を尊重するようになっている。

逆に、資本家や政府が選挙民をコントロールするためのイデオロギーとしてのナショナリズムが宣伝され、これは民衆側の現状への不満と不安から求められる一種の救済願望とも結びつき、両者はさまざまな色合いをなしながらも混合している。しかし、その混合されたものの方向性を主導する力についてはメディアを握っている資本家や政府の意向が反映されやすく、彼らは「国民」を守ることは考えていない。したがって、そのナショナリズムは姜尚中が言うように「国民無きナショナリズム」になる。

もし、このような状況であれば、単に経済現象だけを研究対象とした経済学には、現状の問題点を指摘する能力があるはずもない。政治や経済など分野に囚われずに状況を分析できる分析枠組みが必要である。

概ね以上のような認識だ。

さて、ここでウェーバーに目を向けてみよう。ウェーバーの中では経済史、政治学、社会学と言ったものが渾然となっているところがある。当時はまだ現在のようにディシプリン(個別的専門科学)としての社会科学が固まっていなかったから。しかし、逆に、そうであるからこそ、ウェーバーの利用価値はあるのではないか。

私の場合は、今のところ、こうした枠組みの一つとして「複雑ネットワーク研究」に着目しているのだが、ウェーバーも某かの着想を与えてくれる可能性がある。

この雑誌の特集もそうだが、ここ数ヶ月の間にウェーバー関係の研究書が、次々と出版されている。一時期ぱったりとウェーバー関係の出版が止んだ感があったのだが、数年ぶりに復活という感じだ。ここから姜尚中が言うように、ウェーバー・ルネッサンスが起こり、それが現状の打開に何らかの示唆を与えるものになればいいと思う。

ただ、一言釘を刺しておけば、ウェーバーを基本的な枠組みとして現状の変革を訴えるのは難しいだろう。ウェーバーの論理は歴史社会学的であって、その概念の多くは、基本的には「既に起こった出来事を整理するため」に考えられたものである。私見では、そうした概念からは現状を変革するための着想は生まれにくい傾向がある。したがって、まずは現状の認識を深めるという作業が必要であり、それを理論化して人々に訴えるときに、ウェーバーを利用するという手順が必要であろう。

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