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アヴェスターにはこう書いている?
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興梠 一郎 『中国激流 13億のゆくえ』(その3)

 こうした動き[引用者注;県レベル以下の人民代表大会、つまり地方議会議員で「党派推薦」以外の「自薦候補」が増加していること]は、同年[引用者注;2003年]前半に行なわれた広東省深セン市の人民代表選挙でも見られた。深センと北京の共通点は、住宅所有者集団(業主群体という)の出現である。彼らが積極的に政治参加する背景には、改革がもたらした「住宅」という私有財産の誕生がある。
 かつて住宅は、職場が提供するもので個人で購入する必要はなかったが、いまは違う。1998年に住宅の市場化が始まると、人々は住宅という財産を所有することになった。自分で購入すれば、当然ながら権利意識が発生する。
 都市の民主化要求は、こうした切実な利益と関係しており、もはや抽象的なスローガンではない。この選挙に、天通苑、銀地家園、水清木華園、朝陽園、大西洋新城、望京新城など、団地住民の代表が数多く立候補したのは、権利意識の高まりを物語っている。(p.165-166)


興味深い現象である。この延長上で私有財産として認められるものの範囲が広がれば(特に土地)、それに応じて民主化要求が「持てる者」の間で高まっていく可能性がある。昨年施行された物権法も一種の所有権の拡大をもたらすものだとされているから、数年後には多少の変化が見られる可能性がある。

共産党の独裁がどこまで民主化を受け入れ、それを許容していけるのか、ソフトランディングはどこまで可能なのか、中期的には興味深い問題だ。もちろん、決定的なところは譲る意図はないのは明白だが、長い間の運動の高まりと世代交代は、意思決定の変化にまで繋がる可能性がないわけではない。

2007年後半からのアメリカ発の不況が世界経済の構造を変える可能性があると私は考えるが、その中で中国がどのような位置を占めるのか、ということも民主化や独裁との関係で重要な要因となるだろう。そして、中国の経済力や財政の健全性と深くかかわるものとしての高齢社会化がある。これらがどのような絡み合いを織り成していくかが、中国国内的な政治と経済の布置を大きく左右するだろうし、その国内要因は何らかの形で国際関係にも影響を与えるに違いない。



 1980年代の民主化運動は、「天安門事件」が示すように知識人と大学生が主体だったが、いまは「草の根」である。(p.179)


この変化は記憶しておくべきだ。



 この体制で中国は市場経済化が可能なのか。民間企業が自由に発展する土壌がないまま、はたして市場経済が成立するのだろうか。そうした根本的問題が解決されていない。「改革」を真の改革にするには、市場経済に見合った政治体制が必要である。それは法治に裏付けられた民主政治である。(p.219)


ここに述べられているスタンスは本書に一貫した主張である。

しかし、私はこの主張には懐疑的である。まず、「民間企業が自由に発展する土壌」として法治が確立していることや、政治や行政による恣意的な介入がないことが、それなりの重要性があることは確かだが、それは絶対的なものではないし、さらに言えば、デモクラシーの体制がこれらを保障するわけでもない。

さらにダメ押しすれば、本書で「市場経済」や「民主政治」と言われる場合、いわゆる「西欧近代」をモデルとしていることは明白である。そして、それは単なる社会の理論上のモデルではなく、規範として用いているのではないだろうか。やや戯画化して描き出せば筆者の言っていることは次のようになりはしないか。中国は欧米のような「市場経済」を成立させるべきであり、それを達成するためには欧米のような「民主政治」の体制がなければならない。

これは客観的な事実についての記述ではなく、著者の考える「べき論」である。しかし、著者はこれが著者の考えに基づく「べき論」であることを明示していない。あたかもそれが事実であるかのごとく書いている。私はこれはWertfreiheitの原則に完全に違反した、非常に不誠実な叙述であると見る。

もちろん、このように民主的な政治体制と市場経済という私達の多くにとって馴染みやすいシステムが中国で実現することは、少なくとも、見慣れない「一党独裁的だが市場経済は機能しており、経済力も高い」といった状態になるよりは、「安心感がある」とは言えるだろう。しかし、それが不可能であるという理由はない。

法治が不十分であることは、「透明な市場」は実現できないだろうが、ブローデル的な意味での「資本主義」には適しているのであり、ブローデル的な「資本主義」も広い意味では(非ブローデル的な、常識的な用語法における)市場を活用するのであるとすれば、上記のような体制が成り立ちえない理由はないことになる。これに付け加えて、ドイツやイタリアで戦前にナチズムやファシズムが出現したとき、それらの地域では「市場経済」は機能しなかったのだろうか?と言っておく。

私はこうしたことが「望ましい」と言っているのではない。論理的にも現実的にも、将来的にこうした展開になることが排除される必然性はない、と言っているだけであり、様々な可能性がある中で、本書の著者はその可能性を特定の社会モデルに限定し、それを実現することを悪い意味で――すなわち、『職業としての学問』でウェーバーが批判したような意味で(但し、尾高訳の岩波文庫ではここは決定的に誤訳されているが…)――「事実をもって語らしめる」という仕方で要請している点に違和感を覚える、と言っているだけである。



 中国市場に「攻め入る側」に立つ日本では、「十三億の市場」という期待感から「飛躍する中国」というイメージが主流である。だが、産業基盤も脆弱なまま「迎え撃つ側」に立つ発展途上国から見れば、まったく異なる現実に見えるはずだ。(p.238)



一つ上の引用文に関する箇所では、本書のスタンスを批判したが、こちらの箇所は本書の考え方の中でも重要なものである。異なった立場の側からも物事を見る、ということは必要である。

ただ、中国の経済発展に関する悲観論も、日本の側から見ると願望を投影していたりする。すなわち、日本の国粋主義的なグループから見れば、中国がこのまま経済成長を遂げて日本の力を超えてしまう前に、「自滅してほしい」という結論になるのは目に見えている。国粋主義的右派の中国崩壊論は基本的にこの願望を継承している。そうした議論に多いと思われるのは、大局を見ていないということである。指摘は割愛するが、本書もしばしばこうした失敗をしていたと思われた。
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