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アヴェスターにはこう書いている?
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ウィリアム・ジェイムズ 『多元的宇宙』(その2)

 たとえば、運動は、もともと暗いはっきりしない感覚であって、その本来のかたちは多分、めまいの現象の中に、もっともよく保存されているであろう。めまいにおいて我々は、運動があるということ、それが激しかったり早かったりすること、こちらの方向かあちらの方向かを向いていること、警告的であったり胸をわるくするものであることを、多少とも漠然と感じる。しかしめまいを感じている人間は、次第に、彼の感じている運動を、彼のほんとうの位置や、他のものの位置に関係づけることを覚え、遂にはそれを知性化して、よろめかずに歩くようになる。数学的な精神も、同様に、それなりのやり方で、運動を組織してこれに論理的な定義を与える。運動は今や「相つぐ時点において、相つぐ空間点をしめること」と考えられる。このような定義によって、我々は、感覚の混乱したわたくし性から、完全にのがれるのである。しかし我々は同時に感覚的な実在からもにげてしまうのではないか。運動は、それが何であろうとも、たしかに静的なものではない。けれども我々が今えた定義は、絶対的に静的なものである。この定義は空間点と時間点とのあいだの一対一の対応関係を与えるが、この関係自身も点と同様、固定されたものである。それは無限に指定可能な位置を与えてくれるが、しかし物体がどうやって一つの位置から他の位置にうつるのかについては、黙っている。物体は、もちろん、運動によってうつるのである。しかしこの指定された位置は、いかに多数であろうとも、運動の要素をふくまない。そこでゼノンは、彼の議論においてこの位置しか問題にしなかったので、我々の知性は、運動を非実在として否定する、と結論せざるをえなかったのである。ここで主知主義は、先程私がのべたように、経験を、わかりやすくするどころか、わかりにくくしている。(p.174-175)


感覚的な経験としての「運動」、すなわち「自らが『運動している』という感覚を伴う運動」と、数学などの知性的な操作によって得られる「運動の定義」、すなわち「自らの運動ではなく、他者の運動を観察することを通して記述された運動」とを対比しながら、ジェイムズの言う知性主義が、前者の経験をむしろ見えにくくしてしまうことを大変分かりやすく対比的に描き出している。

いったんジェイムズの思想の内側に入り、彼が見ているものを読者自身が読み取ったならば、見誤りようのない明快な叙述であり、私には真似ができないと感心するのだが、何と驚いたことに、訳者あとがきを読むと、上記の翻訳をした訳者本人が、このことを理解していないことがわかってビックルを一気飲みした。

訳者曰く、

 運動の数学的な定義が静的なものであるとする指摘(175頁)も奇妙なものである。点が固定されたものだからということが、この指摘の根拠らしい。しかし、数学的モデルにおいては、点の集合と点の集合との間の関係によって動と静とが定義される。つまり、時点tと動点xとの対応をx=f(t)であらわす時、fが(少なくともtのある区間に対し)恒常関数である場合、動点xは静止しているといわれ、さもない場合、運動しているといわれるのである。だから、このモデルにおいては、ただ一個の時点を指定して、この時点においてxは運動しているか、静止の状態にあるか、と問うことには、そもそも意味がないのである。(p.273)



だそうだ。

まず、「点が固定されたものだからということが、この指摘の根拠らしい」と訳者は言っているが、私が見落としていないとすれば、ジェイムズはそんなことはどこにも書いていない。まぁ、それは措いてよい。訳者の見解がおかしい最大のポイントは、太字にしておいたところなのだから。

訳者の反論としての主張は「数学的モデルにおいては、点の集合と点の集合との間の関係によって動と静とが定義される」のだから、数学的モデルも「動」の要素を含んでいるということなのだろう。

訳者の主張で一番おかしい点は、「運動の定義」(「暗いはっきりしない感覚」である)「運動」とは別のものであるという、まさにジェイムズが指摘している要点を全く理解していないことである。つまり、「静止しているといわれる」ことは「静止している」ことではないし、「運動しているといわれる」ことは「運動している」ことではないのに、それを無視して(気づかずに)定義の問題に終始しているのがおかしいのである。そして、ジェイムズが言っているのは、「運動の定義」にばかりこだわっていると、感覚される「運動」はむしろ見えなくなってしまう、ということなのである。

そもそも数学的なモデルでの運動や静止というもの自体が、運動体の外から観察し、観察した後で後付けで構築されるものであって、その「数学的なモデル」自体が運動するわけではない。描かれた数学的なモデルの中で動点が動くことを、時間的に後から再現的に見るにすぎない。

この翻訳が出版されたのは1961年なのだが、50年代頃のジェイムズに対する理解というのは、この程度だったんだなぁ、と驚いた。訳者(吉田夏彦氏)は、ジェイムズの専門家ではないと明示しているが、恐らく分析哲学系の研究をしていたんだろう、と想像できる。(検索したらやっぱりそれっぽい雰囲気が濃厚のようだ。)反論のパターンがその系列に属するから。しかし、死後50年も経って、こういう状況だということは、ジェイムズという人は、生前は相当、人々からの無理解に悩まされたことだろうと想像する。

ついでに、と言ってはナンだが、私からの訳者への批判にダメ押しをする形で、ジェイムズのテクストを引用する。

この事物[引用者注;具体的な事物]の知性的なとりあつかいは、後向きのつぎはぎ細工、死後の解剖であって、我々にとって便利な順序にしたがうことができる。もしそれをのぞむなら、事物を自己矛盾的にみせることさえできる。しかし事物が内部でものごとをおこなっている観点にたってみると、これらの後向きで、互いに争っている諸概念が、すべて調和するようになる。ある人間の性格の中心、すなわち、ベルクソンのいわゆるその人間の生の躍動(エラン・ヴィタル)の中に、共感をもって生きてみよ、そうすればただちに生の躍動を外からみている人びとが、これをかくもさまざまなやり方で理解している所以をみてとることができるであろう。・・・(中略)・・・。
 同様にして、ある人間の哲学的ヴィジョンの中心に身をおいてみれば、彼にものをかかせたりいわせたりしている、さまざまなものすべてを一時に理解することができる。しかし外側にたっていて、死後解剖の方法にしたがい、個々の文句をあれこれとりあげてはつぎはいで、彼の哲学を再建しようとするなら、もちろん失敗する。(p.200-201)


数学的モデルってのは「事物の知性的なとりあつかい」の一種で、内部で行なっている観点に立つっていうのが「暗いはっきりしない感覚」を経験することだ。そうやってジェイムズの「哲学的ヴィジョンの中心に身を」おけば、簡単に分かることだと思うんだがなぁ。

余談だが、最後の部分は私がかなりの関心を抱いて追求してきたマックス・ウェーバー研究の状況を思い起こさせる。例えば、論争(?)のあった、羽入辰郎のウェーバー批判などはまさに死後解剖に等しく、折原浩の内在的な理解の試みの方が遥かに実り豊かである。
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