アヴェスターにはこう書いている?
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ウィリアム・ジェイムズ 『多元的宇宙』(その1)

こういう理性主義的な絵画にくらべれば、私の奉ずる多元論的な経験論はみじめな外観しか示さない。それは、にごって混乱し無骨なものである。くっきりした輪郭にもかけていれば、絵画的な気高さもほとんどない。諸君の中で古典的な実在構成になれている人が、この多元的経験論を最初にみた場合、まったくこれを軽蔑しきって、そんな考えはわざわざ口に出して反対するにもおよばないと、いわぬばかりに肩をすぼめたとしても、無理はない。しかし、ある体系の値打ちを知るためには、しばらくの間その体系と一緒に時間をすごしてみなくてはならない。もう少しこの哲学に親しんでみれば、私の提出するプログラムに対して諸君がはじめに感じた驚きはやわらげられるかもしれない。(p.36)



太字にした「ある体系の値打ちを知るためには、しばらくの間その体系と一緒に時間をすごしてみなくてはならない」というのは、まさに同感である。私がマックス・ウェーバーの著作を読みふけっていた頃、ウェーバーから学んだことの一つはまさにこうした姿勢であった。ウェーバーの言葉で言えば、Sachlichkeitということになるだろう。対象に就くことで、その対象を内在的に理解しようと試みるとでも言おうか。

インターネットが普及し始めて比較的早い時期から私はウェブ上に自分の考えなどを綴ってきたが、ここ数年はブログの普及によって、誰もが発言をすることができ、それに対してコメントをつけたりすることができるようになった。そうした中でわかったことのひとつは、上記のような姿勢で他者の言説を理解している人間がいかに少ないか、ということである。

ブログのコメント欄などに批判になっていない非難をして難癖をつけるようなものはよく目にするし、ブログ自体の発言が誰かの発言を批判するものである場合にも、同じことが言える。私としては今年は、積極的に運動的な発言をするよりも、より冷静で「一歩引いた」立場から叙述するスタンスに戻れたら戻りたいと思っている。その意味で、テクスト批判の初歩の初歩である、上記のジェイムズの姿勢をできる限り堅持していくのが良いと思っている。

ちなみに、ジェイムズ自身の発言についてみても、ジェイムズの根本的経験論のビジョンというものは、観察者による後ろ向きの観察によって得られるものではなく、むしろ、そうすればするほど見えにくくなるものだから、読者(聞き手)はジェイムズの言うように、彼の見ているものを彼の立ち位置に立とうとすることによって見て取らなければならない。彼が見ているものは、一言で説明するだけではなかなか伝わらない類のものであるだけに、どうしても聞き手に上記のような姿勢を要求せざるを得ない面もあるように思う。



 スピノザは、最初の偉大な絶対主義者であった。彼の神に近づくことは不可能であるということは、一般にみとめられている。無限者デアルカギリニオイテの神は、神が人間精神ヲ構成スルカギリニオイテそれであるところのものとは異なっている。スピノザの哲学は、カギリニオイテということばでつくられているといわれてきたが、これは正しい。接続詞や前置詞や、副詞が、実際すべての哲学において主要な役割を演じてきた。そうして現代の観念論においては、“as”ということばや“qua”[訳注・いずれも「としての」という意味。]ということばが、形而上学的な統一を現象的な多様性と調和させるという重任をになっている。(p.37、本文で傍点の箇所は引用文では下線を付した。以下同様。)



確かにスピノザの哲学には「カギリニオイテ」が頻出していたと思う。それがある種のごまかしであることを鋭く突いている。今年のうちに、スピノザの著作を何冊かまとめて読もうと思っているので、そのときに頭の片隅にこの指摘を置いておこうと思う。



 このもっともひどい極端さにおいてしかものを考えないという習慣は、ウェルズ氏が、そのすばらしい小冊子“New worlds for old”において、社会主義に対する近頃の反対につきのべていることを、思い出させる。人間の心においてもっともありふれた欠点は、すべてのものを黒か白かにわりきってみようという傾向、即ち、中間段階をみわけることができないということである。そこで批評家達は、まず社会主義について極端な、ほとんど不可能な定義を引出すのである。社会主義は財産をほろぼす、社会主義は家庭をほろぼす等々。ウェルズ氏はつづけてこういう。この方法はいつも同じものである。社会主義者がのぞましいものとして要請するものを、無制限に欲求せられるものだと仮定する――ここで社会主義者のかわりに多元論者とよんでも同じことがいえる――、社会主義者がする提案はみな偏執狂によって実行されるのだと想像する、こうやってできた社会主義の未来図を気持ちのさだまらない、単純な心の持ち主にさし示して次のようにいう「これが社会主義だ。そうだ!そうだ!あなたにはこんなものはいらない!」――これが多元論だ、といっても同じことになる。(p.63)


この連続講義が出版されたのは1909年のことである。つまり、今からほぼ100年前である。ジェイムズの言いたい本旨とは少しだけずれるが、社会主義なり社会民主主義に反対する人間の論法が全く進歩していないことに驚かされる(笑)。

ただ、それを笑ってもいられない。ここでジェイムズが指摘している「人間の心においてもっともありふれた欠点」は、確かに今でも「ありふれたもの」であるようだからだ。それは右も左もなく妥当する。

例えば、「反ネオリベ」の側の「ネオリベ批判」にも同じことが言える部分があったりする。例えば、「ネオリベ」がどのように格差や貧困化をもたらすのかについて、その経路を分析することがないものは批判とはいえないだろう。また、ある人物の言説にネオリベを支持したり側面支援したりする可能性がある要素があるというだけで、新自由主義者呼ばわりするのも同じ。私の用語法ではそういうものは「批判」とは呼ばないのだが、反ネオリベの立場でもネオリベを批判していない(批判になっていない)ことは多々ある。(もちろん、小泉が首相の座を去り、その弊害が明らかになってきたことを背景に徐々に表面化してきた「ポピュリズム批判」の潮流についても同じである。)

今の世論やマスメディアの論調は、格差が広がっている事実を直視し、貧困化の象徴であるワーキングプアやネットカフェ難民などについてようやく取り上げてきている。そうした追い風の中だからこそ、安易に「反ネオリベ」を叫ぶのではなく、より深い切り口で問題を抉り出す必要があるのではないか。(先日メインブログに書いた累進課税推奨論は、私なりのそうした言説の一つの序論である。)

「批判になっていない反ネオリベ言説」は、反ネオリベ陣営にとって逆風が吹いている時には、それでも意味があったと思う。ただそれだけの行為でさえ、反対者がいるということを示すことができ、そのこと自体が十分意味がある行為だから。なぜなら、それは他の疑問に思っているが逆風のため声を上げられない人々に対するエンパワメントになるからである。

しかし、逆風が弱まりむしろ順風になった今こそ、庶民や理論家は、それを具体化する方法を考え、実現する方向に進めるべきであり、抽象的なレベルでとどまるべきではないと思う。
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