アヴェスターにはこう書いている?
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西村克仁 『日本は中国でどう教えられているのか』(その2)

中国人にとっての「南京大屠殺」は単なる歴史上の知識ではなく、「中華民族」としての意識や感情の部分、さらに言えば中国人にとっての「平和」についての概念にまで浸透していると感じる。
 これをどのような形であれ捻じ曲げるのは犠牲者と「中華民族」に対する冒涜であり、同時にそれは世界平和を乱す行為につながりかねない、ということがこの事件を語るときの大前提になっている。いわば、この事件に対する中国人の感覚は日本人にとってのヒロシマ・ナガサキへのそれに近い。(p.134-135)


この認識は本書から得た最も重要なものの一つである。

この文章によって、大多数の中国の人々の感覚がどのようなものであるかについて、ある程度、私の理解は深まったように思う。

あれほどの怒りと憎しみを中国の人々に感じさせている「南京大虐殺」(中国語では本文のように「南京大屠殺」とされることが多いらしい)が、彼らの「平和」の概念と通じているということは、ある意味、意外であると同時に、言われてみれば、多少納得できるとも言える。

実際に、南京事件について中国の人が語るときの憎悪の感情を直に感じたことがあるが、「平和」という観念は私にはちょっと思いつかなかった。
ただ、
  憎悪・屈辱→二度と繰り返されてはならない→戦争・侵略への反対
という論理をつうじてならば、それが「平和」の観念と結びつくことはありうるということに、本書を読んで気付いた。

もちろん、日本を敵視させることで、政権を掌握した中国共産党の支配の正当性を確保し、「中華民族」の団結を維持する機能も存在しており、日本の側から見ると、こちらの方が遥かに大きく見えるのは確かだ。

実際、私が「南京大虐殺から喚起される中国の人々の平和の概念」を理解したとは言っても、それを是認しているわけではない。部分的には是認できるが、あまりにもその平和の概念は受動的であり、攻撃に転じる要素が強すぎるからである。

すなわち、「二度と繰り返されてはならないこと」が、戦争や虐殺ということ自体なのではなく、「中国が」侵略・攻撃されること、「中国が」辱めを受けること、だけに限定されうるし、実際、そういう面があるように見受けられる。「中国が」攻撃しないこと、侵略しないこと、「他国民を」辱めないこと、は積極的には主張されていない。そのことと「日本軍」への憎悪が結びつくことは容易いことであり、「日本軍」の観念が漠然と「日本」を指すことはありうるし、実際に一部にはある。それは外部に敵を想定して「中華民族」を団結させている側面と完全に一致している。

この意味で、「南京事件に対する中国の平和主義」はあまりに不十分であり、私から見ると批判の対象である。しかし、彼らの多くが共有する観念が大枠としてこうしたものであり、当面の間、ここから抜け出すことは考えにくいということを理解することは非常に有益だ。これを手がかりにして今後の対応の仕方を考えることができるのだから。

このことと関連して、私がしばしば感じるのは、中国の人々の発想は、何につけてもあまりに「民族」単位だということだ。知識人の書いたものもそうだし、NHKスペシャルの「激流中国」のシリーズなどに出てくる中国人の発言を見てもそうだし、もっと庶民的なレベルでもそれを感じる。

民族単位で思考することは、容易に思考の飛躍を生じさせ、無用の混乱を生じさせる。また、個人間や企業間の問題を政治化する働きもある。そのほか様々な点で難点と欠点に満ちた発想である。彼らを支配する側の人間にとっては、人々を一つの単位として纏め上げる上で便利で有用なものだが。

だから、それとは別の見方があることを伝えることからはじめることが重要ではないか、という気がしている。「民族」概念を脱構築することや、もっとわかりやすい方向としては「個」の強調という方向である。恐らく、「個」の思想の比重が中国国内の思想的な風土の中に占める割合が大きくなれば、集団的なアイデンティティへの懐疑は生じていくだろうし、そこから「民族」の観念も組み直されていく可能性があると見ている。このような「中国の人々にとって」オルタナティブなパラダイムを提示し、理解するよう促すことが、相互理解を進めていくうえで役立つのではないだろうか。(これを大々的にやることは、思想や言論が統制されているので難しいが、中国国内でそうしたものを実現させることと並行して推進するという戦略があって良いと思う。)



 先述のように、古代における契丹人の遼朝や女真人の金朝、モンゴル人の元朝、満州人の清朝は、「中華民族」による王朝として語られている。一方、日本ではこうした非漢民族による王朝は漢民族を征服して成立し、伝統的中国王朝とは異なる性格をもった「征服王朝」として教えることがあるが、こうした概念は中国の教科書には登場しない。(p.145)



中国のこうした教育の仕方は、過去には「中華民族」というアイデンティティも存在したということが示せない限り、現在の共産党の立場を過去に持ち込むアナクロニズムと言える。日本の教え方もある意味では近代西欧の理論における民族観に立脚しているフシもあり、必ずしも妥当かどうかわからないが。



 言うまでもなく日本では、教育現場に軍事を持ち込むのはある種のタブーとされており、そうした姿勢が教科書表記にも表れているように思う。一方、中国では軍事とは祖国を守る重要な手段であり、そうしたことを理解させるのも教育の目的である。両国の軍事に対する考え方が表れており、非常に興味深い。(p.158-159)



歴史教科書の叙述で、日本では個別の戦役についての記述はほとんどないのに対して、中国の教科書では個別の戦役の戦力分析や戦術的なことまで詳細に記述されている。そのことを受けてのコメント。確かに「軍事はタブー」というのは、当たっているように思う。ただ、歴史教育自体が、極度に政治化されている中国を見習う必要はないだろう。

ただ、軍事という問題をどのように教育の場で扱うべきか、また、メディアの場で扱うべきか、といった問題は日本の社会にとってなかなか重要な問題ではあると思う。

バカバカしいネット右翼や自民党の国家主義的右派のような連中がいる中では、このことにはあまり触れないという方針の方が良いような気はする。日本のナショナリズムは権力者がそれに嵌っているというのが特徴の一つで、権力者がバカだと教育の場やメディアに介入しようとするというのが、ここ数年の流れを見ていてはっきりわかることなのだから。その辺を踏まえると、戦争や軍事は自国民に限らずに(←ポイント)被害者の視点を中心として描き、伝えるというのが、基本的な方向性であるべきではないだろうか。(より多面的な認識は、発展的な場面というかより専門性の高い領域で追求されるほうが良い。)




中国の中高生は原爆投下という事実は知っていても、日本人なら誰でも教えられる広島・長崎でおこった惨状はまず知らないと言ってよい。(p.161)

どうやら生徒たちは、軍部によりコントロールされた政府が、軍部の策定した戦争計画に則って戦争を遂行したという認識を持っているようだった。(p.163)

2003年の遼寧省では「抗日戦争勝利の歴史的意義を説明せよ」という問題が出題されているが、これに対する正解は「中国は近代以来の反侵略戦争に初めて完全な勝利をおさめ、ファシズムに対する戦争に重大な貢献をした」である。この正解文は教科書内容はもちろんのこと、中国人民抗日戦争記念館の展示室入り口の「前言」とも一致し、生徒たちはこうした歴史的評価を唯一のものとして暗記している。(p.163)


原爆の被害についての無理解はアメリカの方がひどいだろうが、こうしたことは国籍に関わらずもっと知られるべきことだろう。

1つ目の文は中国側の日本側への無理解の一例だが、2つ目の文は誤解の一例である。戦術的なレベルまで個別の戦役について教えるなら、指揮系統などのことも教えるのがフェアなやり方だろう。3つ目の文は評価的な歴史観を、試験という強力な手段を通して画一的に固定化するプロセスが簡潔に示されていたので引用した。



 彼ら彼女らの文章を読んでいてはっきりわかるのは、中国政府の見解同様「現在の日本」と「過去の日本」、さらに「一般の日本人民」と「右翼分子」は頭の中で分けられているということである。だからこそ政府が「過去の過ちを認め」れば、もっと友好な関係が築けるはずなのに何故?という純粋な感情が強く表現されているように感じる。(p.180-181)


これは現在の中国で多くの人が感じていることだろうと思う。日本でも同じように感じている人は結構多いだろう。

まぁ、日本だろうが中国だろうが、最初にあげられている区別がきちんとできていない馬鹿者はいるものだが、少なくとも政治家などの公的な立場にある人物がそういうバカなことをしなければ、それほど問題は大きくならないはずである。その意味で、日本の極右政治家(と、ついでに言えば、その支持者)の言動のレベルの低さが日中やアジアの国際関係を正常に保つ上で非常に邪魔になっていると言う事ができる。



日本に対しては「歴史を正視する」のかそうでないのか、といった二者択一的な考え方をもっているように思う。(p.196)


これも傾向としてはありそうだ。この点は明らかに中国側の考え方が偏狭だと言える。価値評価と事実認識を混同して教育し、その正解を一つに定めてしまうという中国の歴史教育のやり方と、日本軍による被害を情緒に訴える形で延々と教えることの2つの要素によってこの態度は養われているように思われる。

ただ、日本の極端な歴史修正主義者の存在も、中国側が柔軟な姿勢をとりにくい背景要因になりうるし、実際になっている可能性もあり、ここでも国家主義的右派は邪魔者になっている。

基本的には、日中の政治的な関係が改善されることで、この傾向は多少は弱まるだろうが、根本的には中国共産党の一党独裁に何らかの変化がなければ、本当の意味での改善にはならないように思う。その意味では中国の人々と対する(中国政府と対峙する)とき、短期的には中国側では、こうした見方をする人が多いということは所与の要素として捉えておき、その上で行為の選択肢を選んでいくというやり方にならざるを得ないだろう。



 古代史における「中華民族の拡大と発展」、近代史の「反帝国主義・反封建勢力との闘争」、現代史の「社会主義建設への模索」は、全て「中華民族の偉大なる復興」(第三章「アヘン戦争」参照)へとつながる物語であると言ってもいい。
 それが、彼ら彼女らが言う「正しい歴史」である。残念ながら、そこで語られる日本は現代部分に至ってもなお、「靖国」や「教科書問題」「防衛費の増額」といった中国に対する脅威として語られることが多く、戦後の日本がおこなった中国への友好努力についてはほとんど語られていない。(p.201)


中国における「正しい歴史」を極めて鋭く簡潔に表現している箇所。これが十分に相対化されるのは、今のままの状況ではまず無理であり、何らかの状況が大きく変わらなければ難しいだろう。

しかし、歴史観などというものは、本来異なっていようと共存することはできるのであり、それを政治問題化さえさせなければ、それほど面倒なことはではないとも思う。政治と絡まなければより客観的なレベルで議論を重ねることができるのだから。
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