アヴェスターにはこう書いている?
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西村克仁 『日本は中国でどう教えられているのか』(その1)
本書は、日本の高校の歴史の教師が、中国の歴史教育の現場に半年間、参加・見学してきた際の見聞録である。歴史問題が外交問題にまで発展する関係にある日中関係だが、相手国の人々の認識を内在的に理解するチャンスはお互いにほとんどない。そうした中にあって、本書は非常に有益な手がかりを与えてくれる良書である。

全体として、私の数少ない中国への渡航経験に照らしても、かけ離れていないため、中国の人々の発想を理解する上で、本書はとても役立ちそうだと思っている。

とはいえ、このブログはきちんとした「書評」のブログではないので、いつもの通り「読書メモ」として思ったことや気付いたことを記録していくことにする。



 中国人民抗日戦争は、近代に中国が外敵の侵入に対して抵抗して以来、初めて完全な勝利を勝ち取った民族解放戦争である。中国人民抗日戦争の勝利は中華民族が衰退から復興へと向かう重大な転換点であり、中国共産党が全国の各民族人民を団結させ民族独立・人民解放の実現へ導き、新中国建設への重要な基礎となった。(p.33-34)


これは盧溝橋近くの中国人民抗日戦争記念館の展示室入り口にある「前言」の一部である。

私が本書から読み取った限りでは、中国の歴史教育とは、基本的に「現在の中国共産党に都合が良いか悪いか」を判断基準として、個々の歴史的事実について評価を行い、その評価と客観的事実とを混合して教え、各種の応用学習を通して内面化していくところに特徴がある。(その際に「高考」という大学入試に出題することで、事実の重要度をコントロールしていることも重要である。)

Max Weberを師と仰ぎ、Wertfreiheitを(批判しながらも、その正しい部分を受け入れて)歴史認識においても基本的な方法論としている私からすると、到底受け入れられない歴史観ではある。

しかし、この一文は上記のような性質を念頭に置くと、中国共産党にとって日本を特別の敵として扱うことが持つ意味を明らかにしていると思われる点で興味深い。

つまり、「日本」という外敵は、また、日中戦争という戦争は、中国にとって復興に向かうにあたって最初に倒された敵であり、その復興と解放を担った中国共産党の支配の正当性に結びつくものであることがわかる。南京事件などが強調されるのも当然、この文脈の中でのことであると考えていいだろう。

このように捉えると、「日本人としては」中国共産党に対して反感も湧くかもしれない。しかし、そのような感情は不要であり、客観的な認識を得るためには、その感情は括弧に入れるべきである。

むしろ、上記の認識は、逆に言えば、中国共産党が支配の正当性を容易に維持できるならば、共産党はこのような歴史問題にこだわる必要がないということでもある。また、複数政党制が実現すれば、早晩、上記のような一方的で一面的な認識は消えていく、ということでもある。(共産党以外の党派から見れば、日中戦争を重要視することが共産党の価値を増やすのだとすれば、それを否定する歴史観を提示するインセンティブが働くだろう。)さらに、より現実的な方向性としては、一党独裁の状態であっても、「現在の共産党の利害状況」を「日本を敵とする認識を薄れさせるほうが得策だ」という状態にしてしまえば、負の価値を強く付加された「日中戦争における日本」という認識は後退するということだ。

感情的になると単純な反発に走りがちになる。それはかえって問題の解決を難しくするということを知るべきだろう。



 今回、見学していた高三クラスの女子生徒と話をしていたとき、「広田弘毅は日本の歴史の授業ではどのように教えているのですか?」と尋ねられたことがある。中国の歴史教育が政治と密接に関わっていることを考えれば、A級戦犯と靖国神社は彼女にとっては常識の範疇なのであろう。
 翻って日本では、政治的問題と歴史教育が関連付けられることは稀である。広田弘毅や東条英機は高校の「日本史」で教えるが、中学で教えることはない。さらに彼らが靖国神社にA級戦犯として祀られているかどうかに関しては、高校でもとくに教える必要はない。おそらく知らない高校生が大半ではないだろうか。こうした知識の積み重ねが、歴史問題をますます複雑なものにしているように思える。(p.114-115)



中国の政治化された歴史教育に対して、日本では「政治的問題と歴史教育が関連付けられることは稀」である。確かにそうだ。ただ、思うに、日本の近現代史の場合、政治的な問題になりうる事柄についての言及や判断は極力避けるという形で、中国とは逆方向に政治的な、ある種の圧力が働いているというべきだろう。

確かに、大局的な歴史認識の中において、誰が靖国神社に祀られているかということは些細なことである。その意味で、教える必要はないとは言える。学校教育以外の場で、こうした問題と触れる機会が多い方が良いのかもしれないが、それができないなら、政治的に問題になりうることは触れないということも「特定の立場」だから、そのこと(政治的に問題でありうること)を明示した上で、教えるという選択肢は「あり」だろう。

著者が言うように、日中双方の過剰な価値付加が相互の理解を妨げている。中国は歴史を政治利用しすぎであり、一部の事実は「事実」でなく「信仰箇条」になっており、日本は歴史を政治から距離をとりすぎであり、それによって「無知」の状態を作っている。「信仰箇条」も「無知」もいずれも無知の一種であり、相手を知ることとは逆である。

(ただ、歴史教育としては、政治と距離をとることは、むしろ健全であり、この方向性を大きく変える必要はないだろう。ただ、問題によっては、この原則を柔軟に適用することが必要な場合がある、かもしれない、ということだ。)
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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