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アヴェスターにはこう書いている?
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浜下武志 『香港――アジアのネットワーク都市』(その2)

 最も特徴的なことは、中国が香港を回復することは、大きく海への出口を確保することを意味している。1842年に香港がイギリスに割譲されて以来、香港は約20年ごとに大きな変化を示してきた。1860年代には新しい商社や銀行が香港に次々と拠点を構え、当初、三代までの総督が香港の経営に意欲を持たなかったことに比較して、香港が大きく拠点としての位置を示し始める
 このようなことにも支えられて、1880年代からは、中国人社会の人口が急増する。主には出稼ぎとして、商人や、あるいは都市雑業の労働に携わる人たちが広東から移動してきたのではあるが、香港が独自の社会的な構成を示し始めるのも1880年代からである。この過程で、これまで中国の南の出口として、明清時代を通して大きな役割を果たしてきた広州あるいは広東の位置が、香港にとって代わられることになった。
 対外貿易港ということのみならず、政治的な南の入り口・出口として、歴史的に東南アジアとのつながりを持ってきた広東は、香港にその海の出口をとって代わられることになった。その結果、中国は150年間にわたり、南の海への入り口を塞がれることになった。あるいは、香港を中継して華南に経済的なチャネルは通じてはいたが、香港を経由して、直接東アジアあるいは東南アジアに対してつながりをつくるという関係はできなかった。いわば間接的な形で香港を利用することになったわけである。(p.98-99)


19世紀後半の香港の位置づけを簡潔に記している。



 このような形で香港に接近するとき、香港は東シナ海と南シナ海を結ぶ接点にあることがわかる。歴史的に見て、この香港の役割は、むしろ広州が長い間果たしてきたものであった。広州においては、海岸を北上する沿海交易と、東シナ海をまたいで、マニラ、長崎と東南アジアとが行なう交易の、その中継地でもあった。中国歴代王朝のもとで、対外経済関係によって中央財政の財源を満たす直轄地として位置づけられ、そこには中央から直接派遣される役人によって関係が管理されてきた。このことは、いわゆる海禁政策といわれる閉鎖政策は、対外関係を閉じて交易を行なわないということでは決してなく、むしろ対外交易からの利益を中央が独占しようとする重商主義政策の現れであった。その下での中央の財政政策と南の経済状況とが競争したり、対立したり、衝突したりしてきたという歴史である。(p.106-107)


海禁政策は重商主義であったという認識は重要である。これは次のような叙述に見られる認識にもつながる。

 第二に、中国における北と南との相互関係を見ると、歴史的に政治・軍事・財政上で重要な関係は、北の草原と南の海からの影響であった。北の塞防と南の海防と呼びうる領域である。北と南の地域的差異によって、華夷秩序の王権の性格、地域の性格が形作られてきた。南海に門戸を開いて財力を得、北からの侵攻を防衛することで秩序を保つ。あるいは南を閉じることによって北に対抗するという、南北の相互関係も繰り返された。南北は同時に視野に入れておくべき問題であり、この側面からも中国の地域を考えることができるだろう。(p.128)





 (5)香港と半島部東南アジアや島嶼部東南アジアに対する後背地を見る。華南から香港を経由して移民が行なわれ、半島部から島嶼部東南アジアにかけて多くの華人街や華僑ネットワークを形作った。そこではモノやカネが移動し、華僑商人が活躍する場となり、外国資本も参加し、インド商人、イスラム商人も加わって、多角的な交易ネットワークを形作った。後にヨーロッパ諸国が植民地とした地域でもあったが、ヨーロッパ商人は歴史的な華僑や印僑のネットワークを利用していたのであり、シンガポールと香港を、ベンガル湾、南シナ海、東シナ海を中継する交易・金融センターとして形作った。(p.125)


ヨーロッパも新しいものを作ったというより、既存のネットワークを利用したにすぎないという認識は重要。



 ジャーディン・マセソン商会および香港上海銀行が百数十年余りにわたり、一貫して香港を中心としてアジアにおける経済活動を維持・拡大してきた秘密はどこにあるのであろうか。それは両者ともに、中国を中心とした東アジア・東南アジアの歴史的なアジア域内経済に密着して活動してきた点にあると考えられる。
 このことは近代以降のアジア経済が、西洋の登場によって、とりわけ工業化の衝撃によって開始されたのではないことを強く示唆している。この歴史的含意は、大英帝国経済の高揚期が産業革命以降の産業資本によってではなく、航運・金融・保険などのいわゆる“見えざる貿易(invisible trade)”によって担われたという議論とも対応して、アジア域経済圏が持つ歴史性と現在性とが改めて問われていることを意味している。香港の歴史的位置の検討を通して地域経済圏を構想すること、そしてその過程において近現代の日本経済の歩みをその中で検討する視点を、香港のタイパンの歴史は物語っているかのようである。(p.187)


引用文にあるタイパン(大班)とは、広東貿易時代の洋行の経営者を指し、ここではジャーディン・マセソン商会や香港上海銀行の経営者を指す。

一つ前の引用文ではヨーロッパの勢力が東アジアや東南アジアにやってきたとき、華僑などの既存のネットワークを利用したことが指摘されたが、これらの地域内部の資本もまた、同じく、この地域内のネットワークを利用していたわけである。

構造的な要因を利用しなければ、個々のアクターは強力である状態を維持することはできない。逆に言えば、強力なアクターというのは基本的にその背景に何らかの構造的な有利さを持っている、ということだ。日本が冷戦「構造」の下で繁栄したことは一つ前のエントリーで述べたとおり。

アメリカが現在、衰退に向かいつつあることも、中国やインドが勢いを増していることにも、背景となる構造的な要因がある。これらは一体の関係であろう。

ブレトン・ウッズ体制の崩壊から金融自由化への道が再び始まり、その前段階として人やモノや情報の移動が高まり、その力が加わったことで冷戦は崩れた。それによって市場が拡大し、自由化された金融の影響力は大きくになった。国内の消費市場が大きく、労働市場も労働力が安い地域が金融資本にとっては最も有力な投資先となる。世界システムの中核部ではその分、実物を生産する力が弱まり、足元から経済が崩れていく。一部の資本家や特権階級を除き、格差が広がり、賃金が下がる。技術移転が終了するまでは、中核地域の経済はそれなりの位置を占めることができるが、半周辺から上昇してきた勢力と経済的政治的軍事的な力が拮抗するようになったときには、摩擦が避けられないだろう。何らかの形での争いが起こる。上昇する勢力が勝つことが多いだろう。そうなれば上昇速度と下降速度が加速する。日本はヨーロッパのようにリージョナルなセーフティネットを築いていない分、没落も早いだろう。

日本の没落に関して言えば、より主要な要因としては、没落しつつあるアメリカと一体となっていることである。没落しつつあるアメリカは自国の勢力を維持するために、ジュニア・パートナーである日本を様々な形で利用するであろう。この傾向は80年代以降、強まる一方である。こちらの方が没落の要因としては大きいだろう。


生き残りをかけるならば、東アジアと東南アジアの金融の盟主となることが一つの道としてあったはずである。しかし、これは今から着手しても遅いかも知れない。あとは、中国の政治情勢がどうなるかということも重要な要因となっていくであろう。もし中国が、国内の情報統制をしなくても支配の正当性を維持できるような政治構造になれば、金だけでなく人も国境を越えやすくなるからだ。
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