アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

浜下武志 『香港――アジアのネットワーク都市』(その1)

 第二次世界大戦後、民族が国家によって分断されたり、あるいは民族が制度によって分断されるという事態を経験した主な諸国は、東西ドイツ・南北ベトナム・中国・南北朝鮮であった。・・・(中略)・・・。
 翻って、これを日本の問題として捉えてみると、日本に近接する大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中国・香港・台湾が、すべてこの“分断状況”にあった地域であることは十分に銘記する必要があろう。そして、日本が戦後五十余年にわたって一貫して享受してきた経済発展も、この分断状況すなわち周辺地域の力の分断=削減と無関係ではなかったことにも十分に注目する必要があろう。(p.8)


国としての力の分断ないし削減というよりも、国内市場の分断=縮小という方が主要な効果がはっきりするだろう。

また、こうした周囲の分断状況を作っていた背景要因は冷戦構造であることにも注意すべきであり、私の考えでは、冷戦構造においてその「西側」の中心であったアメリカにとっての東側への「前線基地」であり「防波堤」としての地政学的な位置づけが日本にはあり、そのことには――日本を経済発展させることが共産化を阻止することになるという関係によって――経済発展を国際政治的に助長するする効果があった。

単に「国家」や「民族」の分裂という捉え方には意味があるが、それだけでは認識を誤ることになる。




 日本は太平洋航路を明治初期に開設するが、明治10年代までには、たとえば香港航路などは一時中止となっていて、必ずしもこの海運業は出発から順調な動きを見せたわけではない。むしろ香港のカリフォルニア移民が1840年代以降、急速に増大し、この移民によって交易が拡大した。
 またカリフォルニアへの移民は当時のネヴァダの銀鉱や金鉱への労働力として、また鉄道敷設の労働力として移動したのであり、カリフォルニアから中国へは銀が持ち込まれた。こうして香港とカリフォルニアは移民、交易、送金のルートとして新たな繋がりを見せ始めた。とりわけ広東省台山県のアメリカ移民の歴史は古く、カリフォルニア貿易を担う商人、商店が香港の南北行に多く出現した。
 この香港・カリフォルニア関係の緊密化が、日本の太平洋航路の登場の直接間接の背景となっている。日本のいわゆる近代化政策は、決して日本がまず独自に始めたのではなく、その背景には、香港あるいは清国の対外関係の中で登場してきたさまざまな貿易、移民、金融のチャネルを、日本も追う形で進められてきたといっても過言ではない。(p.39-40)


日本の状況を理解する際にも、日本のことばかりにクローズアップしていても、うまく捉えることはできない。この香港・カリフォルニア関係の間での日本という位置づけは、そのことの良い例である。

ちなみに、現在の中国には、ファーストフードのチェーン店で「李先生 美国加州牛肉面大王」というのがある。美国とはアメリカであり、加州というのはカリフォルニア州である。牛肉面の面は日本の漢字では「麺」である。そんなわけで、李さん=アメリカカリフォルニア州の牛肉麺大王の店ってことになるのだろうか。

私は中国でこのチェーン店を見るとき、「なんで加州なんだ?」と不思議に思っていたのだが、中国の移民がカリフォルニア州に多く行っており、関係が深かったという本書の叙述から、この「李先生」もそういう移民の(子孫の)一人として、アメリカで財をなしてチェーン店を始めたのかな、と想像している。実際にどうなのかはよくわからんけど。



 1902年の日英同盟は、日本が不平等条約を撤廃し、その下で初めて西洋と結んだ対等条約であると理解されている。しかし、これをイギリス側から見ると、清仏戦争後のフランスがベトナムを拠点に雲南と華南へ勢力を拡張することに対抗しつつ、1898年に香港新界を租借して清朝と条約を結び、華南に対する足場を築いたという経過を前提として、初めて日本との条約が存在したのであって、いわば華南・香港地域をめぐる勢力関係の文脈を中心としていると言えよう。(p.45-46)


日英同盟は国際関係の中では英露の勢力争いの文脈から、東側からロシアを挟み撃ちにする形で覇権の一部を移譲されたと語られることが多いと思う――実際、この後、東アジアと東南アジアへの帝国主義的な拡張政策が行われていく――が、イギリスは同時に華南でフランスとも対峙していたことを強調したのが本文の叙述になると思う。

どちらかというとロシアの方が要因として大きいとは思うが、華南の方でもイギリスは勢力を争いをしていたということも絡めて理解する方がよさそうではある。



 ここに示された香港領事の報告は、開港以降の日本の香港に対する商業的進出の失敗を述べている。1860年代以降、三井銀行、三菱郵船、さらには半官半民の商事会社である広業商会が進出しながらも、次々と撤退した理由を、香港における清商の強勢に求めている。つまり商権が清商に独占されているという事態である。さらに、その清商が日本の商人を飛び越えて日本国内の製造業者と直結して買付けを行ない、日本商人より安価に購入している事態を発見し、もし現状を放置したならば、商権のみならず通商の利益を獲得できないと嘆じている。そして「国益を外人に摂取されている」とすら述べている。
 いま仮に前後の脈絡を抜いて、この一文を明治前半期のものという条件のみで見たならば、ここにいう国益とは西洋に対して主張されるべき日本の国益であり、外国とは西洋商人を指していたと思われる。とりわけ十九世紀末に至る条約改正交渉の過程で主張された基本的内容であったと言えるであろう。しかしここでは、国益は清国に対して主張されているのであり、外人とは清国商人を意味しているのである。
 ここに見られる同時代人の中国認識は、ややもすれば日本の直線的な拡張像に陥りがちな現在の日本近代史像あるいは対中国関係史像とは異なり、香港を介した中国の日本に対する商業的圧力を強調するものとなっている。この点は、近代日中経済関係史の理解についてのみならず、日本の近代化を西洋化として方向づけた動機が対中国関係の中から生じたのではないかという、近代化の「動機」を理解するための手かがりを与えてくれるだろう。そしてさらに、アジアとヨーロッパとの関係が、アジア内部の関係を媒介として形作られているというアジア内部の紐帯の存在に留意せねばならないことも示していよう。(p.78-79)


当時の日本で目指すべきモデルとして西欧のモデルが用いられたことは確かだろうが、日本は単独で自律的に存在しているものではないのだから、日本が組み込まれた周辺との関係が西欧化を目指す中でも様々なレベルで影響していたであろうことは想像に難くない。

なお、清の商人に日本の商人が負けて香港の市場から撤退を余儀なくされるような状態だったという認識は、「西洋化に成功したとされる日本」と「西洋化に失敗したとされる中国」を単純に明暗を分けて論じる、後の時代の経済力を過去に持ち込んでしまうことで生じた単純な論じ方に対して批判的になるきっかけを与える事例ではある。
スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/251-307434b0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)