アヴェスターにはこう書いている?
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ポール・R・シーリィ 『あなたもいままでの10倍速く本が読める 常識を覆す速読術「フォトリーディング」』

 能動的で、目的意識を持ち、探究心にあふれ、集中している――それが最高のリーディングです。(p.44)

 あまりに多くの人たちが、行く先の定まらないまま旅に出てしまいます。どこへ行きたいのかわからないまま、「本を読む」という旅を始めてしまうのです。
 読んでいるものから何も得るものがないとき、私は自分にこう質問します。
 「目的は何だ?」
 そんなときはいつも決まって、答が出てきません。目的がないと、本を読むことは、受身の活動になります。目的なしにテレビを眺めているのと同じで、多くの場合、時間の無駄となってしまうのです。
 目的を持つことは、結果的に、時間をうまく使うことになります。(p.65)

 何かを読むときは、その都度、必ず目的を明確にしましょう。この習慣は集中力を高めます。目的をはっきりさせると、脳は効率よく働きはじめます。(p.66)

学習とは、積極的な活動です。そして活動こそが才能の原動力になります。受け身になったとき、私たちの才能は輝きをなくしてしまうのです。
 テレビは、私たちを受け身にします。テレビは私たちを、ひたすら待機させます。(p.233)

 優れた読み手は、目的意識を持ち、常に著者に質問を投げかけます。そして読書の間、絶えず高い集中力を維持します。(p.233)



くどいほど同じ内容を引用したが、上で主張されているようなことは、フォトリーディングのような速読であろうと精読であろうと、どちらの読み方をするにしても大切なことである。

確かに、あてもなく読んだり、旅に出たりして、そこで「意外な出来事」が起こるということは確かにあり、目的の明確化がすべてではないとは思うが、私のように多読を続けていると忘れがちなことなので、自戒の意味もこめて記録しておきたい。

目的を明確にすることによって、集中した状態で、能動的に学習することができる。能動的だから質問が絶えず出てくる。上記の諸要素は全て繋がっている。こうありたいものだ。




さて、「学習とは、積極的な活動です。そして活動こそが才能の原動力になります。受け身になったとき、私たちの才能は輝きをなくしてしまうのです」と著者は言うが、このことは政治の場で教育が語られるときに、いつも置き去りにされる点である。

例えば、先日の東国原知事の「徴兵制」発言も――反発を受けて撤回したにせよ――集団的な行動を強制することで、上からの命令に従順に従うタイプの「学習」をさせ、それによって「道徳観」なるものが改善されるという筋道になっていた。

教育再生会議でも、基本的に「徳育」という名で道徳教育をしようとしているらしいが、そこでは、「教育」とはナショナル・アイデンティティを強化するための「規範」を押し付ける(刷り込む)ことである、と考えられているフシがある。

こうした「上から(強制的に)与える」類の「教育」は、学習者の「積極的な活動」ではありえない。これならむしろ、「ゆとり教育」の方が、上記のような国家主義者・新保守主義者たちの道徳強制的「教育」論よりはまだマシであろう。

しかし、ゆとり教育に欠けているのは次の点である。

すなわち、ゆとり教育では、上から教えることを詰め込んでいくとによって、生徒たちが受け身になる危険を回避するために詰め込む量や時間を減らす。確かにそのことによって、生徒たちを解放することにはなったかも知れない。しかし、単に重圧から解き放つだけの解放libertyでは、まだ積極的・能動的な意欲を喚起することはできない、という点である。

解放すなわちlibertyとは「~からの自由」であって、能動的・積極的な「~への自由」すなわちfreedomではない。積極的・能動的な「~への自由」には、常に目指すべき方向性が明確になっていることが必要であり、端的に言えば、目的が明確であることが望ましいわけである。だから、子どもに本当に良い教育を受けさせたいと思うならば、子ども達に無理のない形で、自ら目的を設定するように促すような環境を整える必要がある。

学ぼうとする意欲や目的。それは人間同士の関係から生まれる。教師と生徒との関係が学習の場では大きな人間関係であり、もちろん子ども達同士の関係も重要であり、また、親子の関係も捨ててはおけない。それに対して、生徒が一人で自発的に明確な目標を設定して学習することは、ごく例外的な事例や限定的な問題を除けばないだろう。(このような現象が、何もせずに広範に見られるなら、学校など不要である…。)だから、こうした人間同士の関係性を深める学習機会を積極的に設けることが必要であり、また、それを阻害する環境を取り除くことが必要である。

このような観点から見ると、教師と子どもの人間関係を強化するために、教師1人あたりが受け持つ生徒数を減らすこと(つまり、教師の数を増やして1クラスあたりの生徒数を減らすこと)は望ましい方向だと言える。

また、生徒同士にコミュニケーションを促す授業の形式、例えば、グループで学習し、その中で教えあったり、グループに特定の課題を与え、それを自分たちで調べてまとめたことを発表させたりする、というような授業のやり方の導入など、自由な授業形式を教師が選択できることも望ましいだろう。現場や教育学関係の場には、こうした事例は多くある。学校内部の指揮系統のヒエラルヒーを強化するのではなく、学校内での教師同士の情報共有のための時間的労力的なゆとりや、(成果主義ではなく)平等で安定的な待遇などといったことも、十分とはいえなくても望ましい方向だと言える。

さらに、親と子の関係もかなり重要であることも教育に関係する学問の研究ですでに明らかになっている。例えば、親に経済力がなく、子どもを高校に行かせられるかどうかということすら怪しい状態では、親自身が子どもの教育の成果に対する期待が低くなりがちである。親から期待されなければ、子どもも期待に応えようという意欲も湧かない。(一般論としては、過剰な期待も困りものだが、貧困世帯では期待の低さの方が問題であろう。)こういった具合でマイナス方向のスパイラルに陥ったり、また、親自身の教育水準が低いと、親の価値観の問題として勉強に対する価値付けが低くなる傾向が見られ、その低い評価が子どもの勉強への意味づけを阻害したりする。このあたりの話は、この研究なんかが詳しい

親と子の関係に学校や教師が直に介入するのは問題があるとしても、多少なりとも親を啓蒙するような活動を、学校の人的資源を用いて行うことも考えるに値するのではないか。そして、こうした課外活動的な事をするには、現状では、親だけでなく教師にとって時間が足りなすぎる。忙しすぎるのだ。それを(教師や学校に配置されるカウンセラーの人員増などで)軽減することが必要になる。

もちろん、より具体的な提言が必要だが、必要条件として、教育の現場に関わる人間の数をある程度増やし、彼らの共同的かつ協同的な関係性を確保できるような労働環境を、望ましい条件として描くことができる。もちろん、もっと積極的な要素も必要になるのだが。

と、まぁ、本の内容を少し離れて長々と書いてきたのだが、ここで私が言いたいことは次のことである。

「徴兵制」や「道徳教育」は強制的・強権的な思想に基づく。
「ゆとり教育」はliberty(~からの自由)の思想に基づく。
必要なのはfreedom(~への自由)の思想に基づく教育である。


こんなところだ。
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