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アヴェスターにはこう書いている?
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荻野純一、伊藤まみ、柳木昭信、久米美由紀、邸景一 『広州・マカオ・広東省 中国近代史の足跡をたどる』

 大航海時代にスペインとともに世界の海を制覇したポルトガルは、ともすれば武力を背景に世界制覇をしたと思われがちである。しかし、実際にはアステカ帝国やインカ帝国を滅ぼしたスペインとは、かなり違った形での世界進出であった。あくまで平和的な手段での交易を求め、武力は最終手段に過ぎなかった。
 ・・・(中略)・・・。大航海時代も内陸深く進攻したスペインに対して、ポルトガルはあくまで交易に必要な港を確保することに主眼を置いた海外進出であった。・・・(中略)・・・。
 だから、進出先でもいたって控えめである。マレー半島のマラッカには未だにポルトガル人居住区が残っており、ポルトガル人の子孫がひっそりと暮らしている。マレー半島では宗主権をオランダ、続いてイギリスに奪われた国の末裔だからと最初は思った。しかし、マカオを何度か訪れてみて、これはポルトガル人の国民性にあるではないのかという気がしてきた。中国への返還直前でもマカオに住むポルトガル人が、植民地の支配者としてわがもの顔に振る舞っていたわけではなく、地元に驚くほど同化していた。中国系の住民が経済的にも力をつけるようになった数十年前以前に、ユニオン・ジャックの旗の下でイギリス人が闊歩していた香港とは対照的な光景であった。(p.146-147)


確かに、相対的にはポルトガルの進出は平和的だったと言えるのかも知れない。ただ、それをもってあまり美化しすぎることには注意が必要だろう。

なお、「国民性」なる怪しげな性質に因果帰属するのは明らかに不当だろう。例えば、400年前の「ポルトガル人」と現在の「ポルトガル人」に同じ性質を帰することが仮にできたとしても、それを具体化してみると驚くほど貧困な内容にならざるを得ないはずである。さらに言えば、4000年前の「ポルトガル人」(そんな奴はいないが)はどうなんだ?って話にもなる。

つまり、「ポルトガル人」が持つ特定の性質としての「国民性」が歴史の途中から現れたものだとすれば、それはいつなのか?って話になる。国民国家としてのポルトガルが成立したとき?それはいつなのか?そういう時代区分的な話になると、ある程度の定説があっても、論争は絶えないはずだ。その理由の一つは何をもって「ポルトガル」なり「国民国家」が成立したと見なすかによって区分する時期や性質が変わってしまうからだ。その上、こうした規定によって「ポルトガル人の国民性」なるものの内容についても、人によって(依拠する「理論」によって)別々の性質が挙げられることになる。

まぁ、細かい議論はここでするつもりはないが、一つ言えることは、一部の(結構多いか?)人たちによって「国民性」が原因であると説明されることは、ほぼ間違いなく「もっと経験的なレベルで観察や測定が可能な現象に引き落として説明できる」ということだ。そのために必要な知識を持たない人たちが「国民性」という言葉を使って説明をごまかすのである。(この言葉を使わなくても、例えば、「中国人は●●だ」とか「韓国人は▲▲だ」というような性格規定をして、それをもって物事の説明するのは同じことである。基本的に、この場合の●●や▲▲は「国民性」と言い換え可能だからだ。)

ちなみに、これが「ごまかし」であるのは、ある現象を「国民性」で説明した場合、ある「国民」がその「国民性」をもつ原因の説明も必要なのに、その言葉で説明を終えてしまうからである。これは「地面が濡れている」という現象を説明するときに、その原因を「雨が降ったから」と説明し、どうして雨が降ったのか?と問うた場合に、それを「雨の神様が降らせた」と説明するようなものだ。つまり、因果系列による説明に対して「性質の異なる概念」を挟んで説明したことにしてしまっているのである。(「地面が濡れている」←「雨が降った」←「雨の神様が降らせた」という系列の左の矢印と右の矢印では原理的に異なる種類の説明なのに、それを混在させて説明したことにしてしまっているワケである。「国民性」をつかって何かを説明するというのは、これと同じようなものである。)



 十七世紀にマカオに事務所を携えたイギリス東インド会社は、十八世紀中頃になってカーサ庭園の敷地を借り、ここに船荷監督委員会本部を設けた。広州のファクトリーが前線部隊とすれば、ここが東インド会社の対中貿易の前線司令部になっていた。
 ところで、当時のポルトガル本国はすでに事実上、イギリス傘下の国であった。ポルトガルにとって隣国スペインの度重なる干渉を排除してくれたのは、いつもイギリス軍であった。しかし、その見返りは重かった。十七世紀後半以降のポルトガルは経済的にイギリスの属国のようになってしまう。それを決定づけたのが、1807年のフランス・ナポレオン軍のポルトガル侵攻であった。ポルトガル王室はイギリス海軍に護衛されてブラジルに遷都する。それまで文字通りドル箱としてポルトガルの命脈を保ち続けていたブラジルで採掘した金は、これを契機にして、そのほとんどがイギリスへと流れていくようになる。七つの海を支配したイギリス経済を支えた金本位制は、このブラジルから運ばれてくる金があったから可能になったという指摘すらある。(p.173-176)



私は、ポルトガルにはこれまであまり注目してこなかったので、ブラジルの金にもあまり注目したことはなかった。A.G.フランクがインドは金を飲み込む坩堝だというようなことを言っていたが、それと繋がっているように思われる。

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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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