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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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上田信 『東ユーラシアの生態環境史』
チベット高原と清朝との間の交易について。

 チベット族の居住地域からくだった物産には、毛皮のほかに麝香・鹿茸・貝母・冬虫夏草などの薬材が多かった。・・・(中略)・・・。
 下りの荷が効率的に集められるプロセスには、チベット銀貨が深くかかわっていた。1720年にダライ・ラマの宗教的な権威をめぐる抗争の結果、清朝の軍がチベットに進駐するようになる。この軍隊を維持するために、軍事費として大量の銀錠が、チベットに流入する。チベットは外部からインゴットのかたちでもたらされた銀を、そのままで用いることはしなかった。ネパールに送られ、そこで低品位のコイン銀貨がつくられたのである。
 このチベットの通貨政策は、異国に造幣を委ねる点で、現代の管理通貨体制に慣れた私たちには奇異に感じられるかもしれない。ネパールは実際、チベットの銀貨をつくることで大きな利益をえた。それでもチベットがネパールでの造幣にこだわった理由は、清朝の影響がおよばない土地で造幣することで、経済的に圧倒的な影響力をもつ中国から自立することをねらったものと考えられる。中国の商人は銀貨をチベットから持ち出し、鋳つぶして中国で流通する銀錠にすれば、銀貨の純度が低いために損をする。その結果、銀貨は持ち去られず、チベットの領域内で循環することになったのである。
 チベット族が活動していた大理の交易地である下関までは、わずかな銀貨が運ばれた。しかし、そこから先までは行かない。茶葉の対価としてチベット高原をくだったほとんどが、高原のさまざまな物産であったのである。銀貨がチベット領域をめぐることで薬材が広い範囲で円滑に集められ、18世紀にも茶馬古道をめぐる交易が回転できたのである。(p.21-22)


なかなか興味深い通貨政策である。清朝から純度の高い銀貨が入ってくるのをわざわざ低品位の銀貨に変えてしまうことによって、清朝への銀の流出を防ぎながら、通貨の流通範囲内の交易を活性化させ、輸出する物資を調達した、という構図。

ここでのチベットの清朝に対する振る舞いは、1980年代後半以降、特に小泉政権以後の日本政府がアメリカ政府やアメリカ企業との関係でやってきたことと全く逆に見えて、大変興味を引かれた。

金融面でより強大な勢力とは一線を画しながら、域内の実物経済の力を活用したチベットと比べて、日本政府は金融などのより流動性の高い領域ではアメリカ政府の言いなりになりながら、国内の実物経済の力を衰退させているからである。対比のポイントは域内で貨幣を流通させるかさせないかという点である。

三角合併を認めて日本の優良企業を外資が持って行きやすいようにしながら、財政による所得の再配分を極小化することで、国際的に資金を移動させることができない主として国内のみで行動する企業やもともと国際的に移動することが難しい消費者(わざわざ国境を越えて「日常の買物」をしに行く人はいないでしょう。少なくとも日本に住んでいる人は。)には、外国とのやり取りに基づく金はほとんど回ってこないために、資金繰りが難しい状況を作るというのが、日本政府の経済財政政策だからである。

繰り返しになるが、再度まとめる。チベットは資金の流出を防ぎ、域内で流動性を回すことで、域内の生産と流通を活性化し、それによって対外的に経済を維持した。日本政府は資金を流出させ、域内には流動性を回さないことで、外国に依存するしかない、自立的な経済財政運営ができなくなるような道を進んでいる。

チベットの通貨政策がうまくできていたことに感心したと同時に、この対比が想起された箇所であった。



 十八世紀から十九世紀の20年代にかけて雲南で流行したペストは、ヒトのあいだの流行が一段落したのちにも、各地で齧歯類の動物にひそんだと考えられる。1856年にムスリムの社文秀は、ペー族、イ族、漢族なども率いて蜂起した。社が大理で建てた政権と清朝とは、1874年まで雲南の広い地域を巻き込んで抗争した。18年におよぶ戦乱は、生態環境の劣化を加速するとともに、多くの軍馬が移動したために、ペストをふたたびヒトの疫病として復活させ、雲南全土に蔓延させる結果となった。
 雲南からペストが広西にはいり、そして陸路と海路を伝って広東に広がり、1894年についに香港にはいった。この経路は、雲南で生産されたアヘンが運ばれるルートとかさなるのである。国際貿易港の香港から世界各地にペストが広がり、世界的流行となった。国際貿易と疫病、その二つは深く関連し合っていたのである。(p.67)


13世紀、モンゴル帝国がユーラシアを広域的に連結することで、、西はシャンパーニュの大市から東は中国にまで至る、複数のサブシステムからなる一つの広大な世界システムが形成された。こうしてヒトやモノの往来が活発化すると、それによって14世紀半ばにはペストが世界中で大流行し、各地で生産力が減退し、世界システムは分断されていった。

ここ数年、妙にインフルエンザが流行したり、ノロウイルス、鳥インフルエンザといった伝染病が多いのも、グローバリゼーションと呼ばれたような国際経済の一体化の促進と関連があると見るべきであろう。

なお、世界の一体化は冷戦時代から既に進んでいたので、冷戦後に限る必要はない。エイズなども人間の国境を移動が増えたことによって、被害を拡大しているように見える。最近は中国にもかなり感染者が多いと聞く。中国の経済が急速に発展していることとこれは無関係ではないだろう。活性化されているところこそ、ヒトやモノの出入りが激しいと考えてよいだろうから。

そんな感じなので、対策をとることが難しい新手の伝染病が現れたとき、今のグローバルにヒト・モノ・カネが往来する世界経済は、大打撃を受けて分断と停滞の局面に入ることが、そう遠くない将来(数十年後くらい?)に、あってもおかしくないと思っている。



東ユーラシアの歴史

 雲南を攻略したモンゴル帝国は、その後、一気に南宋をくだす。フビライは中国を征服するプロセスのなかで、中国的な官僚機構を備えた元朝を建設する。この元朝が核になって、東ユーラシアの多様な生態環境のあいだをめぐる交易が、飛躍的に活発になる。雲南の西南部で生産された茶葉が、商品としてあらわれるのもこの時期であったし、黒井の塩井でモンゴル人の監督官のもとで本格的な製塩が始まったのも、この時期であった。
 東ユーラシア全域を俯瞰するならば、長江下流部で織られた質の高い絹織物、景徳鎮などの窯業地で焼かれた陶磁器が、ユーラシア全域に輸出されるようになった。中国産品の流れとは逆方向に、大量の銀が中国に流れ込む元朝は商業税や塩税などのかたちで銀を市場から徴収すると、元朝の皇帝をモンゴル帝国の盟主として承認してもらう見返りに、ユーラシア各地のモンゴル政権に贈り届けた。この銀がウイグル族やムスリムが経営する商社に投資され、ふたたび中国物産の買付に使われた。この交易は銀の大循環と呼ばれる。
 モンゴル政権は商業活動を保護し、交通の安全を約束したため、陸と海とをめぐる遠隔地交易が盛んになった。この交易は銀の循環が支えたとされる。しかし、東ユーラシアに存在した銀の絶対量が、拡大する交易の規模を支えられなくなった十四世紀、経済が失速する。元朝のあとに中国を支配した明朝は、遠隔地交易を抑圧する政策をとらざるをえなかった。
 長い不況をこえた十五世紀半ば、中国では銀に依存する経済が復活した。しかもおりよく、日本で石見銀山が発見され、さらにスペイン人がアメリカ大陸からフィリピンのマニラに銀を持ち込むようになり、東ユーラシア全域が保有する銀が増大し、遠隔地交易が拡大するペースが加速された。こうして十五世紀後半から十七世紀にかけて、東ユーラシアは中国の物産を軸にして、「商業の時代」に突入する。この交易にからんで、東ユーラシアの各地で生態環境が激変しはじめた。
 熱帯雨林や季雨林が広がる東南アジアでは、海に接する港市に拠点をおいた商人が、河川を遡って森林の物資を求めて内陸にはいるようになった。森林に住む人びとも、遠隔地交易向けの産品を得るために森と向かい合う。ヒトと生態環境との関係は、大きく変化した。中国でも長江下流デルタ地域が、交易向けに養蚕とクワ栽培などに特化し、この手工業地域への食糧供給地として、長江中流域で米穀生産に適応する自然の改変が進んだのである。
 十七世紀に東ユーラシアの交易は、ふたたび壁に突きあたる。100年あまりの模索の時代を経て、十八世紀には新しいシステムが生まれた。新システムの要点は、産業の振興。銀や銅などの貴金属を手にして、交易に参加するのではない。海外から輸入していた物産を自国内で生産したり、国外から物産を輸入するのに必要な外貨の獲得を目的に世界商品を生産したりするため、基盤から新たな生産工程を政策的につくりあげるのである。十八世紀から十九世紀までの時期を、「産業の時代」と呼ぶことができる。
 日本では江戸幕府のもとで、生糸の国産化が進められ、銀・銅にかわる輸出産品として、俵物と呼ばれる海産物が産業として育成された。とくに北海道のコンブ、青森から三陸海岸にかけてのアワビなどは、中国で高級素材として歓迎された。オランダやイギリスは、東ユーラシアの植民地で世界商品を生産する産業をプランテーションとして育成した。こうした産業振興は、生態環境を根底から変えることになった。(p.82-85)



非常に興味深い箇所。銀の保有量が流れの多少を決めるとする素朴な見解など、幾つか批判すべき点はあるが、いろいろと参考になる記述が多かったので小節ごと抜書きした。

興味を引かれた点は多々ある。明朝の経済政策がどうして拡張的でなかったのかということの説明は特に興味深い。また、15世紀からの経済の復興も銀の産出・保有量が増えたことから説明している点も要因としてはあっただろうと思われる。「産業の時代」の説明も興味深い。政府が政策的に産業のあり方を決めたわけだが、これは国民国家が成立したことと深く関わるだろう。そして、一国レベルで売るのに有利な製品を生産しようとすると、自国で作れないものが出てくる。そこで植民地が必要になり、そこで「効率的」なプランテーションがおこなわれるという構図ではなかろうか。
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