アヴェスターにはこう書いている?
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小島毅 『東アジアの儒教と礼』(その2)

 しかし、日本の貴族たちは朝廷儀礼や冠婚葬祭について、用語や定義づけに儒教の教義を採用したにとどまった。彼らは唐風を知識として知っていたにせよ、その実践的受容はしなかった。それを「自分たちの独自性を意識していたので意図的に拒絶した」とみなすのは、近代のナショナリズムを過去に投影する誤解でしかない。律令の作成者たちは、唐の礼制を導入したくても、自分たちの国が現実にはとてもそういう状況ではないと考えたのである。中国と日本との本質的な相違ゆえというよりは、グローバル・スタンダード導入には時期尚早との政治的判断による選択なのであった。
 菅原道真の遣唐使廃止建白も日本文化への自信が生んだわけではない。唐の衰退によりすでに50年間途絶していた遣唐使に道真が任命されたのは、藤原氏側の道真追放戦略の一環であった。政治学についても仏教学についても、唐から学ぶべきことは一通り学びつくしていた。いわゆる国風文化の時期は、中国に強大な王権や新しい儒教・仏教の展開がみられなかったことに対応している。
 しかし、この時期も、男性貴族による公文書や日記は漢文で書かれ、たがいの交際には漢詩が交換された。かな文化の重要性を否定するつもりはないが、この時点でそれは女性がかかわってはじめて生じるジェンダー的なサブカルチャーであり、これを過度に美化することは日本の伝統文化の曲解につながる。このころの唐と日本の関係は近代的な意味での対等な国家間関係ではなかった。そもそもそうした国際関係についての思考自体が存在していなかった。安易なナショナリズムに便乗しないためにも、近代になってつくられた物語から解放された立場で、この時期の東アジアを俯瞰してみる姿勢が今後ますます重要になってくるだろう。(p.50-52)



儒教の実践的な面や制度的な面は日本の領域内ではほとんど浸透しなかったというのが歴史の真相のようだ。本書によれば、この後、江戸時代に至ってもそうした状況が続いていたようだ。これは意外性のある事実かもしれない。だから、別の箇所では明治維新の時代について次のように言っている。

日本には清や朝鮮が近代化に際して重荷に感じていた礼教秩序から脱却する必要性が、最初からなかったのである。それはどちらに先見の明があったかという次元では語れない、歴史の皮肉であろう。(p.84)



さて、話を冒頭の引用文に戻すと、最近の右派に見られがちな「粗雑な言説に」釘を刺しているのも痛快だ。どういうわけか(←ポイント!)右派で歴史を語る論客には評論家や文学者やジャーナリストあるいは政治家が多いようだ。歴史学者は大変少ない。っていうか、特定の数人を除いて知らん。これが何を意味するか歴史修正主義者に与する者は考えた方がいいだろう。そして、歴史学者である筆者は、今の世の中では、上に引用した文で述べられているような誤解や曲解に満ちているから、わざわざ上記のように指摘せざるを得なかったのである。




 明治時代の日本では、一般にそう思い込まれているのとは反対に、江戸時代以上に儒教倫理が社会に広く浸透していた。その柱が『教育勅語』である。その淵源が明の『六諭』にあることはすでに述べたとおりだが、礼教というかたちをともなっていた中国とは違って、日本の場合には儒教倫理の道徳性・精神性だけが強調された。そのため、『教育勅語』は一見、人類に普遍的な倫理を説いているように読めてしまう。実際、原著者の井上毅は、「これはアメリカでも通用するだろうか?」と、アメリカ通の友人に問い合わせている。
 「規律と選抜」を良しとする近代社会において、『教育勅語』の愛国主義は、たしかにどこの国民国家にとっても有益な内容であった。「中外ニ施シテ悖ラズ」と勅語自身がいうとおりなのである。
 しかし、そうした近代のあり方自体が、わたしたちにとって好ましいとは限らない。教室での「起立!礼!」という掛け声は、それまで存在しなかった儒教式の礼にかわるものとして、国民国家創設のため、学校教育において新たに創造された礼であった。「御礼」や「失礼」として、わたしたちが日頃気軽に使っている「礼」ということばの裏にある歴史をきちんと踏まえておくことは、今の日本国民にとってじつはとても重要なことなのかもしれない。(p.86-87)



基本的に同意見である。ただ、次のような言い方をした方が良いのではないかと思う。

◆ 『教育勅語』の愛国主義は、たしかにどこの国民国家にとっても有益な内容であった。
→ 『教育勅語』の愛国主義は、たしかにどこの国民国家の為政者・支配層にとっても有益な内容であった。
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