アヴェスターにはこう書いている?
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小島毅 『東アジアの儒教と礼』(その1)
魏晋南北朝・隋唐時代の中国の「教」の状況についての部分。

 儒教が「儒教」と呼ばれるようになったのも、これら三つの教えが並び立つようになり、これらを区別する必要が生じたからであった。「儒教」とは、浮図(ブッダの音訳)や老荘ではなく、周孔の教えだというわけである。
 神々や祖先への祭祀においても、儒教は仏教・道教の挑戦を受けるようになる。貴族たちは、基本的には儒教の礼を規範として尊重しながら、実際の生活では仏教や道教の流儀に従った祭祀もおこなっていた。仏教・道教が、それまでの儒教には欠けていた個人の霊魂救済を説いていたからである。
 この点において仏教・道教は宗教であり、それが栄えた魏晋南北朝・隋唐時代は「宗教の時代」だとされている。たしかにそのとおりであろう。しかし、それは宗教とは個人の霊魂救済を目的とするものだという、西洋起源の宗教定義を前提にしての話にすぎない。当時の東アジアの語法では、儒教も含めて三教という「教」が並存していたのである。留学前の若き空海にすでに『三教指帰』という著作があることからも、この考え方が広く浸透していたのがわかる。儒教は決して衰えていたわけではない。



ヨーロッパ中心主義的な歴史観は、今でもまだ広く流布しているのだが、「宗教」をここで著者が指摘するような意味で捉える人も大変多いように思う。つまり、「宗教」というのは「個人の霊魂救済を目的とする」ものという捉え方だ。

確かにこうした「宗教」観は「政教分離というイデオロギー」を浸透させるのには都合がいい。しかし、この見方では社会の中に宗教現象を位置づける際に支障が生じると私は見ている。上記のような「宗教」観に立っている(否定していない)人は、そのことに気付いていない(仮に何か変だと気付いていても、理論的にうまく処理できない)と思っている。

イスラーム世界の神権政治を奇異なものと感じたり、前時代的(前近代的)なものと捉えたりするのはその典型だろう。また、私が比較的最近出会った事例では、「日本は一神教がないのに社会の規律が正しかったのは、天皇制があったからじゃないか」なんていうトンデモな議論をする人がいたが、こうした類の言説も然り。

前者は、「『宗教』は個人の問題であって社会の問題ではない。だから、『宗教』が政治にコミットするのはおかしい」という発想に立っているし、後者は、「一神教こそ『宗教』の最も高度な形態(段階)であり、それは道徳を正すものだ」とでもいうような「宗教」観を前提している。

私も、宗教には個人の内面と外形的な行為との両方に関わる「規範」を与える機能があると考えるので、その意味では個人の内面に関わるし、規範や道徳を与えるものでもあるのだが、彼らの「宗教」観では現象を捉えるための道具立てとして「宗教」という言葉を使おうとする場合には、あまりにも指示範囲や内容が狭すぎるのである。変な切りとり方をしているから、本来繋がっているはずのものが全然見えなくなっているわけだ。

私の場合、宗教というものを次のように捉えている。すなわち、「宗教とは人間が集団を形成する際の一つの様態である」と。ほぼ絶対確実だと思うのは、宗教は常に集団を作るということだ。たった一人で何か神や教義を信じていても、それは宗教とは言わないはずだからである。しかし、全ての集団が宗教による集団だといわけでもない。だから、あくまでも集団形成の一つの様態なのだ。

問題はどのような様態なのか、だが、ここは比較的緩めに規定すべきであって、次のようになる。「『集団に属する個人の主観的な心的表象』あるいは『集団が発するその集団を特徴づける公的言説』の少なくともいずれかにおいて、明示的であれ暗示的であれ、何らかの共通の信念ないし理念を媒介にしてその集団が結合されているとされていること」と。明示的に利害を表に出すことは少なく、むしろ、表向きはひたすら理念的な主張がなされることが多い、ということだ。

もちろん、この規定は集団が実際には何らかの利害関係によって結びついていることを妨げるものではない。実際には、常に利害関係(特に政治的および経済的な利害)はどこかで絡んでいるのだから。そうした利害が前面に出ている場合、その集団は宗教というより「経済団体」だったり「政治団体」だったり「市民運動団体」だったり、と特徴づけられる。宗教的団体は建前上は観念的・思想的・理念的といったような皮を被っているところに、他の種類の集団との相違がある。

しかし、同時に、この規定は、神や天使、精霊のような何らかの神秘的な存在についての信仰だとか、聖と俗の区別だとか、強く押し出された個人の主観的な信仰の有無だとか、儀式の存在だとか、そういったことはほとんど無視して成り立つようになっている。これらの要素のいずれかが揃っていることは、宗教の必要条件ではない。このことを私は意図的にやっている。これらの個々の表象自体は宗教を特徴づける(ないし、その特徴を際立たせる)ものではない。

比較的言語化されにくい深層的な意識のレベルで共通の価値意識が、客観的に見て共有されているか、または、メンバー間で共有されていると本人達が信じているか、あるいは、メンバー間で共有していると信じていることにしているという建前が彼らの共通了解になっているか、であればそれで良いのである。自己啓発セミナーやオカルト的なサークルやちょっとカルト的なサークルみたいなものであっても、ギリギリ入るかどうかという限界的な事例として含まれるかどうかというところを指示できていれば、私としてはそれでいいのだ。実際、こうしたものの多くは伝統的な宗教が力を失った場合の機能代替物という側面があるから。

最初に述べた概括的な規定(集団形成の一様態)については私は全くというほど変える必要性を感じていない。後半の集団形成の様態の規定は修正の余地はなきにしもあらずだと考えているが、同時に、基本的には表現上の修正のレベルで足りるとも考えている。(推敲しないでアップするが、アップした後に推敲する必要はあると思っている。)

まぁ、それはさておき、このように捉えておくと、なぜ歴史上、常に宗教団体が政治にコミットしてきたかが自然に理解出来る。本当はここからが本題だが事例は省略。別の機会に書きたい。なお、政教分離のイデオロギーには、一方に現実的な配慮がある半面、他方では当時のヨーロッパで宗教と結びついた権力を無力化しようという政治闘争の産物という面もある。

いかん。時間が亡くなってきた。しょうがないので、とりあえず途中の状態でアップする。後にこれを修正するかもしれないが、別稿で類似の問題を書く際にこの草稿を利用したい。

ちなみに、本文から大幅に逸脱した話題を好き勝手に書いている。これが当ブログを「書評じゃなくて読書メモ」とする所以である。これは本の内容の紹介・批判や感想といったことを書くというより、読んでいて思いついたことなどをメモしておくもの、っていう意味。
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