アヴェスターにはこう書いている?
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歴史教育者協議会 編集 『シリーズ 知っておきたい中国Ⅲ 香港・マカオ・台湾』(その1)

 山が多く岩肌だらけで自然資源に欠く香港が今日の繁栄を勝ち得た理由は、ヴィクトリア湾という良港(水深が深く、波が穏やか)を有し、関税障壁を設けない自由貿易を実行したからである。さらに重要な点は香港が広州という中国の伝統的貿易港の出入口に位置していたことである。(p.46)


香港を地政学的に位置づける場合、このあたりの事実が基本となるだろう。



 英国は、香港を植民地としてヴィクトリア市を建設する際に、オーストラリアの植民官僚ウェークフィールドの理論のとおり、原住民の中国人から土地をすべて収奪して全土を英国の国有地(Crown land)にし、海面埋立権も統制のもとにおいて、空間利用の権利を一手に独占していた。中国人の難民たちの多くは、新たな定住先がみつかるまで香港島および九龍半島の市街地周辺部にある空き地を占拠して住みついたが、どこに住みついてもそこは国有地で、不法占拠者(スクォッター)と英植民地政庁にみなされることになった。
 難民に対する政庁の姿勢ははじめのうち冷淡そのものだった。・・・(中略)・・・。
 だが、朝鮮戦争の戦火拡大が状況をまったく変えてしまった。1951年5月、国連は、北朝鮮を支援する中華人民共和国に戦略物資を輸出しない措置を開始し、アメリカ合衆国もまた輸出停止措置をとったため、香港の中継貿易基地としての機能は、マヒ状態に陥った。
 中国市場を事実上失ったあと、英植民地政庁の政策転換は早かった。同年7月、政庁は、難民の計画的な再配置をおこなって香港への定住を促進する新しい政策に乗り出した。これは、資本や技術をもち香港経済に貢献できそうな難民と、貧困で犯罪や暴動など香港に悪影響を及ぼしかねない者の二つのグループに分け、前者を「認可地区」と呼ばれる区画に、また後者を「黙認地区」という区画に定住させて、それ以外のスクォッター小屋は撤去する、という計画だった。
 ・・・(中略)・・・。
 難民の再配置は、政庁の財政収入確保のためにも急がれなくてはならなかった。香港の国有地地上権は、競売で最も高い権利金を政庁に払う者に与えられるのが普通である。このおかげで、香港の空間は、植民地政庁の財政収入のおよそ三分の一をまかなった。これを難民が占拠しつづけることで、政庁は潜在的損失をこうむっていたのである。
 ・・・(中略)・・・。
 このように、英植民地政庁がはじめた難民の再定住政策は、福祉政策ではなく、中継貿易機能がマヒしたあと、植民地を維持し発展させるための、空間的な経済政策だったのである。(p.66-68)


東アジアの歴史を調べていると、朝鮮戦争がこの地域に極めて大きな影響を与えたことが見て取れる。これもその事例。日本にとっても特需が経済発展に繋がったことは良く知られているが、台湾にしても、アメリカとの関係が好転したのはこの戦争のためであった。

戦争のもたらす緊張状態は、平時には曖昧になっている諸要素のうちの幾つかを明確に固定化することがある。それが構造的な要因のバランスを変えていくことがあり、そのような形で世界の構造を変えていくことがある。ベトナム戦争もアメリカのヘゲモニー衰退を決定的にした面があり、アフガニスタンへのソ連の派兵もソ連崩壊に繋がった。21世紀におけるアフガニスタンとイラクに対するアメリカの戦争もまた、同じように新しい時代への移行を規定するものになるのではなかろうか。



労働市場を自由放任の競争の場とするには、労働力供給を過剰ぎみにし、労働者が、組合運動をつうじた階級闘争にではなく、労働者どうしのはげしい競争を展開することに自己の賃金上昇や労働条件向上の可能性を託すようにしておけばよい。(p.80)


これは香港における植民地支配の仕組みについて説明した部分の記述なのだが、上記のことは、今の日本にしっかり当てはまっている。



 60年代末に文化大革命の嵐がマカオにも及んだとき、ポルトガルははじめ紅衛兵を何人か射殺するほど強硬だったが、結局妥協に転じ、その後中華人民共和国の実質的な影響力が浸透していった。
 ユーロコミュニズム政権の誕生でポルトガル本国が「最後の植民帝国」という汚名をようやく返上したとき、アジアでもマカオと東ティモールが脱植民地化されることになり、75年末かぎりでポルトガル軍はすべてマカオから撤退した。返還はされなかったが、すでにマカオは中華人民共和国の一部のようになってしまっていたのである。住民もこのことはよくわかっていた。香港よりずっと早い75年におこなわれたマカオ立法議会選挙では、本国のユーロコミュニズムを支持する党が、中国共産党系組織の前に敗退した。84年の選挙制度改正は、中華人民共和国系をいっそう有利にした。
 他方香港では、60年代末の反英闘争に英植民地政庁は譲歩・妥協を一切しなかった。返還交渉でも、はじめ英国は香港の植民地支配継続を主張したし、パッテン総督は中華人民共和国と対立を続けている。
 こうした政治状況から、マカオは西側でも、北朝鮮のプレゼンスが強い。在留外国人として、韓国籍が41人に対し、北朝鮮国籍は61人(93年)いる。北朝鮮旅行が直接予約できる国営観光事務所も、アジアではマカオだけにある。(p.108)


香港よりも遥かに自治権が大きく保障されていたマカオの方が、より中国に対して従属的であったという事実は興味深い。まぁ、権限上、自治的であるということは、それだけ本国の後ろ盾が弱いということでもあるから、理解は出来るのだが。

北朝鮮とマカオとの関係が深いというのも興味深い。BDAがマカオの銀行であることも偶然ではないわけだ。
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