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アヴェスターにはこう書いている?
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邱永漢 『食は広州に在り』

香港などでは、茶楼が日本における喫茶店の役割をはたしている。商談はお茶を飲んでいるうちに行われる。したがって、大陸貿易専門のブローカーばかり集まる茶楼とか、不動産や金融ブローカーばかり集まる茶楼といったぐあいに、しぜんと特徴がでてくる。(p.28)


17世紀後半から18世紀前半頃にかけてロンドンなどで流行したコーヒーハウスと同じパターンである。




 ものの本によれば、華僑を南洋にばらまく直接の動機になったのは、西紀1277年、元の忽必烈(クビライ)の爪哇(ジャワ)遠征と、明の永楽帝時代、すなわち1405年にはじまる鄭和の遠征だそうである。前者のとき、動員された兵力は二万といわれ、主として福建、江西、湖広より徴集された。この戦争は結局失敗に帰したが、今日ベトナムに残っている元日本兵と同じような残留者が爪哇にとどまったにちがいない。もちろんその数は問題になるほど多くはなかったであろうが、鄭和の時代になると、前後七回、足掛け二十八年にわたる大遠征だったから、華僑発生史上相当の役割を果たしていると思われる。
 ただし、これは杓子定規の考え方で、華僑を今日ほど繁栄せしめたのは、ほんとうは自分たちの故郷が住みにくかったからである。政治的亡命、集団移民……等々、いくらでも説明はつくが、要するに国にいては食っていけなかったからである。(p.85-86)


著者は歴史学者ではないこともあり、後段の意見は必ずしも信頼度は高くないと私は思うが、それなりに面白い見解ではある。

国にいては食っていけなかったことが、主な原因なら、飢饉などのときに華僑が増えるように思うが、どうもそうではないような気がする。商売のチャンスが南方にあるかどうかという状況と、それらの土地にアクセスしやすいかどうかということ、また、それらの土地に対する知識や認識が華南(中国)の人々の間で、ある程度広まっていること、こうした条件が揃っているときに華僑が増えると考えたほうが良いように思う。とりあえず、私としてはそのように仮説を立てておく。



 金持になっても成金根性を発揮しないところに華僑らしさがあるが、それは彼らの心がけがよいからというよりも、そうしなければ他の者に対抗していけないからである。彼らは事業が左前になったからといって政府に泣きつくこともできず、デパートが横暴だからと独禁法に訴えることもできない。経済界の変動に対していっさい自分たちの力で始末をつけなければならないのである。したがって、華僑の経済組織は不況にも耐えていけるようにつくられているのがふつうである。一軒の店における使用者と使用人の関係は血縁的、地縁的色彩が強く、固定給なども日本人が想像するよりもはるかに低い。その代わり決算後利益の二割とか三割を紅利(ホンレイ、ボーナス)として使用人に分配する習慣がある。もう一つは使用者が使用人に飯を食べさせる習慣である。華僑の食事は朝十時と夕刻六時の二回がふつうであり、このときは老班(ラオバン、主人)も同じ卓のものを食べることになっている。銀行のようにきわめて資本主義化された機関においてさえ、正午になると扉を閉めて銀行員一同食事の席につくところがある。なぜかといえば、中国には元来弁当なるものが存在せず、冷飯を食うことを極端にきらう傾向があるから、飯を出さねば飯を食べに帰さなければならない。銀行のように営業時間の短いところでは仕事の能率に影響するし、一般商店の場合には月給の安いのを補う意味がある。・・・(中略)・・・
 さて、以上のようなわけで華僑の商社では富豪の邸宅と同様に、厨師(コック)を雇っているところが多い。(p.89-90)


この華僑についての記述は、どことなく「日本型経営」を想起させる。地縁や血縁の関係によって結合しているということは、ネットワークのクラスター性の高さにつながるが、それは「日本型経営」の特徴でもあるだろう。固定給は低めで業績に応じてボーナスを支払うというシステムもかなり似ている。華僑では使用者が使用人に食事を食べさせるというが、これも現金給付を少なくする代わりに現物給付で補っているということに着目すれば、ボーナスと同じように月々(日々)の給与を低めに抑えることに貢献しながら、社内(ネットワーク)の一体化を助長することができる。「日本型経営」では福利厚生の充実に相当する。

「日本型経営」というと真っ先に「年功序列」と「終身雇用」が想起され、これが非競争的なシステムであるかのようにイメージされることが多かったが、実際のところ、このシステムは「対外的な競争に強いシステム」であるというのが私の見方である。本書では、華僑の経済組織は不況に耐える強さがあるとされているが、それは経済組織としての安定性を示している。

ちなみに、年功序列と終身雇用の組み合わせを中心とする「日本型経営」のシステムは組織の内部について、非競争的だと多くの人々にはイメージが持たれているかも知れないが、実際には、長期的に評価が行われることによって、持続的に競争が行われるシステムでもある。それもこのタイプの組織の強さの要因をなしている。何でも競争すれば活力が出るわけではない。適切に競争が組み込まれたシステムであることが必要なのだ。



以下は丸谷才一と言う人が書いた本書の解説からの引用である。

彼はもう一つ、まさしく昭和二十年代の後半において日本人が学ばねばならぬことを説きつづけたのだが、暢気なわれわれは、たかが食べもののことを書いた随筆のなかにそんな大それた教訓が秘めてあるとは思わなかったらしい。彼の教訓とは、人間は国が亡んだとて生きてゆける、ということであった。
 邱永漢は亡国の民である。・・・(中略)・・・。
 そのような彼にとって、たかが一度の戦争に敗れ、あわてふためいている当時の日本人の暮し方は、まことにみっともないものに見えたに相違ない。国が亡んだとて、そんなことくらい何でもないではないか。大事なのは個人がこの一回限りの生を楽しむことで、それにくらべれば、植民地がなくなろうと、国土が占領されようと、軍隊が消え失せようと、財閥が解体されようと、どうでもいい話ではないか。彼はそういう趣旨の手紙を、亡国の民の先輩として、われわれ後輩に書きつづけたのである。(p.227-229)


「国が亡ぶ」というと、あたかもその「国」の「国民」がことごとく亡ぶかのようなイメージが、心のどこかに思い浮かぶ。そして、その「国民」の中に自分や近親者も含まれるものとして想像されて、「国が滅びたら大変だ」と思うかもしれない。

もちろん、戦争という愚かな行為になれば、多くの人々が苦しむことになるのは確かだ。しかし、「ある国が亡ぶ」というのは、実際は「その時の政府がなくなる」ということに過ぎない。今の政府がなくなるだけであり、それに代わって別の勢力が政治権力を握ろうとするだけだ。

そういう意味では、「『国民』の死滅」という表象と比べれば、大したことではないわけである。もちろん、政府が変わることは、権利が変わることを意味するのだから、それなりに大したことではあるが、最も大事なことはそんなことではないのだ。

表現はややラディカルだが、かなり良いところを突いていると思う。

ついでに言っておくと、現在の日本にいる「国家主義」的なイデオロギーの信奉者たちは、私から見ると、「戦争に敗れ、あわてふためいて」いた当時の日本の人々の姿などよりも、遥かに「みっともないもの」に見える。なぜならば、「最も大事なこと」を疎かにしているからである。
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