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アヴェスターにはこう書いている?
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池上彰 『そうだったのか!中国』(その1)

 当時の江沢民は、最高指導者だった小平によって中央に引き上げられたばかり。党内基盤が確立しているわけでもなく、国民的人気があるわけでもありませんでした。そこで江沢民が使ったのが、「歴史問題」というカードです。
 愛国教育で若者たちの反抗の芽を摘む一方、過去に中国を侵略した日本に対して謝罪を求めることで、「強い指導者」を印象づける方針でした。(p.12)


この歴史問題に対する日本側の反応の多くは、学問的および政治的な観点から見て間違ったものであった。

謝罪するような事実はなかったという無理な主張する修正主義は、客観的な妥当性に乏しく、諸外国の合意を得られるようなものではない。日本国と自己同一視している個人だけが、この主張を好都合であると感じることができるがゆえに受け入れることがあるだけである。しかし、日本国なるものと私達は別のものだから、幼児的な観念の持ち主以外はそんなことにはならない。これが基本的に右派の反応である。

左派は謝罪が必要だという立場だが、マスメディアの場などで主張を訴える場合、道徳的な側面が先行している。道徳的な判断があること自体は、特段否定すべきことではないが、道徳的判断を相対化した上で、的確な戦略的判断をも同時に提示したかというと、「比較的浅い主張しかできないマスメディアの場」では、それがなされていないという現状がある。

より重要なのは「客観的かつ戦略的な判断」である。いずれも客観的でもなければ戦略的でもない。前者は日本国や日本国民という存在しない観念と事故を同一化している時点で自己客観化できていない政治的幼児である。後者もまた自らの道徳的判断と政治的判断との区別がついていない点で批判されなければならない。(ここで両陣営に言いたいことは、要するに、「Wertfreiheitくらいは使いこなせ」ということだ(★注)。)

観念論でもなく道徳論でもない科学的かつ政治的な判断では、まず、謝罪をするということだ。謝罪してしまえば相手は「謝罪しろ」とはもはやいえなくなる。もっと要求を高めてくることを右派は恐れているが、要求が高まれば高まるほど、要求する側が「浮いてくる」ということを計算に入れていない点で、それは誤りである。国際社会の中で過度の要求をする中国が浮いてしまえば、孤立化させることができるのだから、そこまで引っ張ればいいのだ(★注2)。要求を高めなければ、それで相手のカードを封じたことになるのだからそれでいい(★注3)。

また、日本政府は既に3兆円の援助をしているのだから(中国政府自身、賠償も放棄しているし)、中国政府から責められるなら、それを声高に叫べばいい。この事実については、中国政府はあまり触れたがらないが、責められるなら何度も繰り返ししつこく言えばいい。諸外国(国際社会)も条約もあるのだから日本側に対しても理解を示しやすいだろう。

ただ、政府間の補償は済んだが、個人に対する補償はされていないという指摘もある。それに対しては極力「誠実に対処する姿勢」を示せばいい。金で満足するなら安いものだろう。しかも、個人への補償には限りがある。既に本人達は年老いており、本人が死んでしまえば、遺族に対してまで支払う必要はない(少ない)からだ。

はっきり言って、中国政府の要求の多くはそれなりに対処すれば封じることができるものが多いと私は考えている。それにもかかわらず、日本の右派の反応は中国政府と中国人民の火に油を注ぐだけのものばかりであり、また、テレビで聞けるようなレベルの情緒的な左派的主張は、そもそも道徳の問題でしかなく、政治の問題ではないために不十分である。そうした道徳的な感覚を持つ左派が自らの道徳的感覚を相対化した上で政治の問題を語るべきなのだ。道徳的ではなく政治的な判断に基づく考え方が、左派の側に不足していることが、日本の言論(論争)が不毛な一つの理由ではないかと思う。

以上、走り書き程度のものだが、今、それほど重大な問題に直面しているわけでもない状況で、あまり細部にこだわったり、細かい手の内を書いても仕方ないので(状況が変わればなすべきことも変わるし、既に時代は江沢民から変わっているのだから)、このくらいにしておく。

(★注1)ただ、Wertfreiheitは、社会科学的な訓練を相応に積まないと使いこなせないと言うことが、これまでいろいろな学生(院生)たちと話をしてきた経験からわかっている。最低でも半年から1年くらいは厳しく教え込まないと身につかないようだ。その意味で、社会科学的な訓練がない人間に、そこまでのものを求めるつもりは私にはないのだが、敵対的な議論をする場合には、議論が成り立つための最低限の素養として、相手側にこうした知的技能を求める。例えば、数ヶ月前に別のブログで、私が書いたIdealtypus(理念型)という概念をIdee(理念)という意味だと勝手に勘違い(誤読)して反論してきた人がいたが、あれには失笑してしまった。そういう場合、一から十まで説明しないといけないから――しかも、それを相手が修得するまでかなりの期間かかることが経験上わかっているのだから――忙しい中ではとても話にならないのだ。

(★注2)北朝鮮の核問題で話し合う場で、それとは直接関係がない拉致問題を前面に出す、という過度の要求をすることによって、国際社会の中で浮いてしまい――いくつかのリップサービスをしてくれた政府はあったが、実質的にそれらの政府が協力してくれたわけではない――孤立化した日本の事例がよい見本である。

(★注3)もし仮に、江沢民の歴史問題カードの使用が、池上氏が書いているような動機に基づくものであるとすれば、江沢民も顔が立っただろう。相手を立てつつ、相手の攻撃は封じることができるなら、それでいいではないか?と私は思うがね。






 現在の中国の公認の歴史では、この国共合作で共産党は日本軍と激しく戦ったということになっていますが、実際に日本軍と真正面から戦ったのは、国民党の軍隊でした。・・・(中略)・・・。
 毛沢東の軍隊は、日本軍との戦いを避け、国民党軍が日本軍と戦って戦力を消耗させていくのを横目で見ながら、勢力拡大をはかっていました。
 中国共産党は、抗日戦争で中心的役割を果たして勝利したことを自らの政治的正統性の根拠として宣伝しています。しかし、実際にはそうでなかったことを、中国人研究者の謝幼田は、中国国内で正規に発刊された歴史文書、軍幹部の回顧録などを元に調べあげています。(p.27)


なかなか面白い。建国神話というのは、大抵、事実をそのままは書かれず、脚色されるものだが、現代においてもやはりそれは変わらないということだろう。こうしたことは、中国に限ったことではなく、アメリカの建国神話(メイフラワー号とかの話)も似たりよったりの美談になっている。

一応コメントしておくと、中国共産党の場合、一応、戦線には参加していたのだから、「激しく戦った」というのがあまり正しくないだけで、全く間違っているわけではないだろうな。日本の右派は、一点でも突っ込みどころがあるとそれを拡大して、その彼らにとっての突っ込みどころが、あたかも全てであるかのように扱うことが多いが、本書自体の議論にもそういうところがある。兵站を担うだけでも大いなる戦争貢献なのであり、後方ではあれ戦場に出ていることも、それなりの戦争貢献なのである。
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