アヴェスターにはこう書いている?
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カッシーラー 『シンボル形式の哲学 第三巻 認識の現象学(上)』

ある意識内容がおのれ自身を表現するだけではなく、ある他の内容をも表現しようとするばあい、あるいはそれが直接現前していないような内容の「代理」をしようと試みるばあいにはじめて、意識全体の諸項間にある相関関係――つまり、その続きぐあいが間接的なものになればなるほど、ある項を誤って別の項とみなしたり、「それをとりちがえ」たりすることにもなりかねないようなそうした相関関係――が生じてくるのである。してみれば、こうした現象は単純な感覚の領域にではなく、判断の領域に属するものなのだ。そして、むろん判断は――たとえなんらかの感性的な所与を単に肯定したり確認したりするだけに甘んじているように思われるそのもっとも単純な形式においてさえ――、それがもはや単純な現実存在の圏域にではなく、記号の圏域に生きているというまさにそのことによって、感性的所与とは区別される。われわれは、判断に身をゆだねるやいなや、事物そのものではなく、その代理のシンボルを操作するあの「抽象的」思考の呪縛下にふたたび身を置くことになる。(p.21、本文で傍点の箇所は引用文で下線を付した)



ポイエーシスにおける感覚と反省的な観察者の認識との相違をかなりいいところまで捉えている。ここで「感性的所与」を受け取っている認識作用そのものに、動的で生成的な性格があることを正しく捉え、さらにカッシーラーが「判断」の領域に対応する観察者の認識が、その「感性的所与」を受け取っているシステムの作動の帰結のひとつとして現れているという関係を明確に示しているならば、かなりの程度(完全にとは言わないが)、私の認識論と重なるのではないだろうか。



 ここでもまた知覚の病理学は、空間の純粋な現象学がゆきつくもっとも重要な成果の一つを裏づけてくれる。というのも、空間の現象学もまた単なる行動空間と純粋な表示空間とが違うということを、繰り返し意識させられているからである。(p.472)



この行動空間と表示空間という概念は、利用価値がありそうだ。(カッシーラーがここで使っている意味とは同じでないとしても。)今後、この概念を取り入れることを検討したい。

ただ、この引用文の箇所からもわかることは、カッシーラーはどちらかというと具体的でフィジカルなレベルよりも、セマンティカルな、意味論的なものに価値を置いているように思う。アプローチの向きと出発点が私の今の立場とは逆なのだと思う。

恐らくこれはカッシーラーが(観念・思考という方向での一元論への志向が強い)マールブルク学派から出ていることや、当時のドイツの哲学(認識論)の言論空間(実証的な科学が扱ってしまう「行為」よりも、意識や観念・主観性のようなものに関心がもたれた)の中で過ごしていたことによるのだろう。

だから、行為というかシステムの作動が見えにくいのだろう。しかし、20世紀半ばまでの哲学者のうちで、(ベルクソンに次いで?)カッシーラーはもっともこの点をうまく捉えている者の一人だと思う。
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