アヴェスターにはこう書いている?
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佐藤優と山口二郎の対談 「なぜ安倍政権はメルトダウンしたか 露呈した権力中枢の空白」
これは『世界』の2007年11月号に掲載された対談である。

山口 「国土」という発想は、小泉時代に決定的になくなりましたね。宮内義彦オリックス会長、規制改革・民間開放推進会議議長が、公然と「北海道の人口は多すぎる。200万いれば十分だ」と発言したことがあります。北海道という広い島に隅々まで人間が住んでいるから行政コストがかかる、人がいれば学校も警察も消防も病院も置かなければいけない。彼らは「経営」という言葉が好きですが、国土経営の効率を考えれば、北海道は札幌周辺だけに200万の人間がいるくらいでちょうどいいというわけです。(p.59)



新自由主義のイデオロギーは、国境を越えて自由に移動する資本の立場から語られる。資本の立場から見れば「国土」などというものは、ある意味では不要なのである。資本が活動できる基礎となる市場を整えることと、市場での活動を大資本にとって有利な状態に保つこと、これを法律を用いて確保することだけが政府には求められる。それ以外の分野はすべて縮小・廃止というのが新自由主義の発想である。

まさに小泉の時代は、このイデオロギーが幅を利かせ、繰り返し、その必要性と有効性がメディアを通じて流されることによって、人々の中に常識として染み込んでしまった。

ただ、山口が言うように「国土」という発想が完全になくなったわけではない。それは国家主義的な言説の中で観念的なものとして補完される。実態的なものではなく想像上の「国家」の中では「美しい国」として語られるわけである。リアリティはないが。

そして、あまりにも安倍の言説にはリアリティ欠如がひどかったので、「視聴者=有権者」も「引いて」しまったというのが実情だろう。

福田内閣になってから、自民党への支持を回復するために、保守本流的な「地方重視」がパッチワーク的に導入されそうな気配もあるが(実際は、財界と一体化している自民党は新自由主義を当面は捨てられない)、それは小泉・安倍内閣のときよりはリアリティを持って「国土」を捉えることに繋がるだろう。それは政党支持率にも多少の影響を与えるものと思われる。自民党に下野してほしい私にとっては複雑なところだ。なぜならば、新自由主義からゆっくりとではあれ舵を切りつつあるのだとすれば、それは今までよりは望ましいとは言える。しかし、自民党政権が続く限り、決して日本政治の危機は去らないからだ。


山口 政党助成金が入っているから、幹事長や経理局長という党の中枢部には逆らえない。さらに小泉時代に、小泉という人気者にぶら下がることによってラクして選挙に勝てるというか、風が起こったら自分自身はたいしたことなくても自民党が公認というだけで選挙に勝てるという、非常に幸運な思いをした。そうすると個々人の政治家がどんどん脆弱化し、非常に同調主義が強まる。その結果、一元化、集中化が進んでいるというのが実態なのです。
 自立した力のある政治家が活発に議論して党の意思を形成し、そこで話し合って決めたことを協力して推進していくという、本来想定していた一元化ではなくて、個々の政治家が非常に無力化してリーダーにぶら下がるという消極的な動機で同調主義になって一元化していくという現象がいま起こっている。権力集中、一元化のハコモノをつくったけれど、その中は空っぽだったといことが今回明らかになりました。(p.60-61)



この件に関しては、やや違う角度からではあるが、「今回」よりも前に私も指摘したことがある。

この現象は小泉以降の総裁選でも見ることができる。安倍のときも福田のときも、一極へと雪崩現象が起こった。他方、民主党についても、小沢一郎が党内をある程度掌握できているのは、これと似た状態があると思われる。

二大政党制というか小選挙区制では、各政党の僅かな違いが議席の違いに大きく結びつく。僅かでも失点を避けなければならないという意識は自民であれ民主であれ相当強いだろう。そうした点も、執行部には逆らわない、という中央集権化を進める一因ではなかろうか。その結果、公共的な議論は失われ、政治は市場化していく。二大政党制イデオロギーから脱却し、小選挙区制を廃止すべきである。思うに、比例代表にするのが一番わかりやすい上に多元性を確保できるのではないだろうか。




佐藤 しかし、「人生いろいろ」では許されない領域が政治にはある。国家の基本的な役割や枠組みをきちんと思想的に、「大きな物語」として描くことは、有識者の仕事です。(p.62)



一昔前に流行った、「大きな物語」は終わったとする言説に対し、佐藤優のこの発言は注目に値する。佐藤は最近、このことをよく語っているようだが、私もそれには賛成である。

しかし、論壇の議論の水準が政治の影響によって低下しているのではないかという気もしている。日本の場合、地政学的な重要性が低下しているのだから、一国レベルでそれを挽回し尽くすことはまず不可能だと私は考える。しかし、悪化する中でもまだマシなものを選べるように、様々な可能性を考えることは必要である。しかし、そうした試み自体が、あまりなかったように思う。

保守系・右翼系の思想というのは、実際上、社会科学的な検討に耐えられない代物であり続けている。少なくとも日本語で書かれてきたテクストについてはこれは確実である。中道的リベラリズムの思想は、根本的な刷新は行われていない。古いままの教義がそのまま現在も流通している。そもそもリベラリズムは抑圧からの解放の思想であり、それ自体は建設的な思想ではない。

構築的で建設的でありえたのは左翼系の思想であるはずだった。しかし、左翼思想はマルクス主義の決定的な退潮以後、ナショナリズムとの対抗の関係からもあろうが、「国家」という表象を相対化する方向に向かい、その表象の力を無効にすることに尽力してきた面がある。その意味で、佐藤優が言うような、いわば国家的なビジョンとしての「大きな物語」を構築する方向には向かわなかった

これは日本に限ったことではない。ブレトン・ウッズ体制が崩壊し、金融を含めたグローバル化が70年代以降、段階的に進んでいく過程において、右派の言説ではナショナリズムが高まりを見せる中、それに対抗するナショナリズム批判の研究が進んだ。また、資本の猛威が戦前のように動き始めたこともあるのだろうが、特に90年代以降、反帝国主義的言説も復活してきたように思われる。ポストコロニアル・スタディーズなどもこうした流れの中で出てきたものと思う。しかし、これらの思想には、「国家」を中核に置くものはなかったのではないだろうか。少なくとも「国家」を否定する言説としての性格が強かった。これには一定の価値や意義があると思うので、一概に否定しようとは思わない。しかし、ナショナリズムやコロニアリズムに抵抗するのに精一杯になっている間に、重要な知性が政治を「革新する」方向に向かわなかった。

まとめよう。

知性の欠けた右翼言説は保守主義として権力に擦り寄るだけで、すでにある権力を超えるものを構想できなかったし、できていない。少なくとも日本では、今後も当面はできないだろう。中道的リベラリズムは――ウォーラーステインに終焉を宣言されてしまったが――従来の100年以上前の思想のままだった(「哲学」の世界ではある程度の刷新はあったが、それは他の世界にはあまり波及しなかった)。マルクス主義を失った左翼は国家や植民地主義・帝国主義といった権力の危険性と闘うのが精一杯だった。これは日本だけの現象ではない。(右派のヘタレぶりは日本はひどいものだが。アメリカのネオコンも馬鹿だとは思うが、馬鹿は馬鹿なりに、それなりに手を次々に打っている点が日本や他の国々とは異なっている。)

しかし、日本のような地政学的重要性が低下している地域では生き残るために相応の戦略が必要であり、佐藤優はその点を突いていると思うのだ。最近、私も次は何を研究しようか迷っていたのだが、佐藤優の発言を読んで、この方向で模索するのは悪くないかもしれないと思い始めたところだ。
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