アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

マルコム・グラッドウェル 『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』(その2)

ようするに、破傷風の予防の機運を一気に広めるには、新しい追加の情報を雨あられと振りかけても無駄だということだ。
 必要なのは、情報提示の仕方にさりげなく、だが有意義な変更を加えることなのだ。
 学生たちにはまず破傷風菌についての知識を与えなければならない。それに地図と診療時間についての情報が付加されると、パンフレットは抽象的な医療的知識――ふだん学校で受けているアカデミックな授業と本質的な違いはない――から、実践的かつ個人的な医療アドバイスへと変化する。そして、ひとたびアドバイスが実践的かつ個人的なものになると、それは記憶に粘るのである。(p.137、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



これはブログでも同じだろう。しばしば政治系のブログでは署名を呼びかけたりしているが、その際には、情報提示の仕方が重要だということ。

理論的な面で言うと、本書のこの部分は「粘りの要素」について述べている部分である。普通、初歩的な「複雑ネットワーク研究」の啓蒙書では、ネットワークをつなぐリンクの性質やノード自体の性質はあまり問われない。本書はそうした点にまである程度踏み込んでいるのが特徴である。

例えば、ある知識が広まる場合の「広まり方」に注目する。本書の場合、広まる知識の性質にも配慮している点が、多くの啓蒙書との違いであり、かつ、実践的なところだと思う。




 ニューヨークに生じた変化は漸進的なものではなかった。ニューヨークの犯罪伝染病の流れを変える役割をはたしたのは、明らかにそれとは違う何かだった。
 この「何か」の候補としてもっとも興味深いのは、割れた窓と呼ばれる理論だろう。この「割れた窓」理論は、犯罪学者のジェームズ・Q・ウィルソンとジョージ・ケリングが発案したものである。ウィルソンとケリングは、犯罪は無秩序の不可避的な結果だと主張した。割れたまま修理されていない窓のそばを通りがかった人は、誰も気にしていないし、誰も責任をとっていないと思うだろう。まもなくほかの窓も割れる。すると無法状態の雰囲気がたちまちそのビルから向かいの通りへと伝わり、ここではなんでも許されるという信号を発しはじめる。
 都市においては、たとえば落書きや風紀の乱れ、あつかましい物乞いなど、比較的些細な問題のすべてが割れた窓と等価であり、より深刻な犯罪の呼び水になると二人の犯罪学者は書いている。(p.194、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



一般的に言って、これこそ規制緩和が引き起こす犯罪や不正、秩序の混乱の原因ではなかろうか。

例えば、ホリエモンや村上ファンドなどのインサイダー取引にしてもそうではないか。また、賞味期限切れの商品を売っていたという類のニュースも異様に多いのもそうだ。

市場が「事前規制型」から「事後監視型」に変わることによって、小さな脱法・違法行為が増えたのではないか?それらが増えたからこそ、経済犯罪がやたらと増えたのではないか?

もちろん、規制緩和が競争を激化させ、それが個々のアクターに負荷をかける(無理をさせられる)という圧力も要因としては極めて大きいと思うし、よく指摘されるところだ。しかし、「規制緩和」を行うことによって開かれた可能性は脱法・違法行為の方向へも開かれる。それらの多くは些細なものに違いない。しかし、それが常態化することによって、どんどん秩序が崩れていくのではないか?

近年の「政治とカネ」の問題の続発にしてもそうである。企業献金などの「規制緩和」がなされたことが、この問題の激化を促しているのではないかと疑っている。これは企業だけでなく、その他の団体にも波及する。

個人的には、このように、規制緩和批判や新自由主義批判にネットワーク理論を使えるのではないかという着想は、本書から得た大きな収穫であった。



 わたしたちが性格とは統一された包括的なものだと思い込むのは、人が頭のなかで情報処理するときに、一種の死角のようなものがあるからである。こういう傾向を心理学者は、「根本的属性認識錯誤(ファンダメンタル・アトリビューション・エラー)」(FAE)と呼んでいる。このおもしろい言い回しは、人間は他人の行動を解釈するとき、おしなべてその根本的な性格特徴を過大評価し、状況や背景の重要性を過小評価するということを意味している。わたしたちはつねに出来事を状況的(コンテキスチュアル)に解釈しないで、素因的(ディスポジショナル)に解釈しようとするのだ。(p.218、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



この部分は認識論的に興味がひかれた箇所。心理学でもこうした知見があるのか、と。

これは「本質主義」と「構築主義」が対比される場合の、「本質主義」の認識の性質を的確に捉えている。逆に言えば、本質主義的な認識というのは、ごく素朴なものであって、「根本的属性認識錯誤」に対して無批判的なものであることを示している。ここが私が関心を引かれた点である。

また、私の認識論的な立場の一つは、「文脈主義」と呼べるが、上記の訳語で「状況的」の原語はどうやらcontextualのようだから、直訳すれば「文脈的」ってことになる。その意味で、文脈主義は、本質主義が陥りがちな「根本的属性認識錯誤」に対して批判的な認識のあり方だと言える。これはまさに私がこの立場をとる所以でもある。




 従来の素因がすべてという考え方――つまり暴力行為の原因をいつも「社会病質人格」や「超自我の欠陥」、あるいは欲求充足の遅延不能や遺伝子に潜む悪に求める考え方――は、結局のところ、犯罪に関して受け身の最たるものでしかない。
 なるほど、いったん犯罪者を捕まえれば、こういう考え方も更正させる役には立つかもしれない。抗鬱剤の投与とか、精神療法を受けさせるとか、社会復帰の便宜を与えるとか……。しかし、当人が最初に起こす犯罪を防ぐ手だてにはほとんどならない。犯罪の伝染に対する古風な考え方に従えば、おのずと防御的な手段をめぐらすほうに向かう。ドアにもう一つの鍵をつけ、強盗の意欲を削げば、ひょっとすると隣のドアに回ってくれるかもしれない。犯罪者を長く拘束しておけば、それだけ危害を加えられる機会は少なくなる。郊外に引越しして、できるだけ犯罪者との距離を保つ……。
 しかし、背景の重要性を理解し、環境の比較的小さな特定の要素がティッピング・ポイントの役割をはたすということがわかれば、このような犯罪に対する敗北主義は転倒するだろう。環境のなかのティッピング・ポイントは変えることができる。割れた窓を修理し、落書きを消せば、最初の犯罪を誘発するシグナルを変えることができるのだ。犯罪は理解するだけのものではなくなる。防ぐことができるようになる。ここにはもっと幅広い可能性があるのだ。(p.226、本文ではゴシック体の部分をブログでは強調。)



これは極めて有益な考え方だ。本書の言う「背景の力」を理解することは、背景の力に働きかけることを可能にする。そして、背景を変えることで、犯罪などの凶事を予防することができる。

通常の社会科学の場合、この背景の力が漸進的に作用する場面を想定する。本書がそれと違うのは、極めて些細なものが、強力な作用を及ぼしうることを明らかにしたことである。もちろん、社会科学的な分析も有効ではあるが、それがすべてではない。ネットワーク理論の方が有効な場面も多々あるということだ。(ニューヨークの犯罪を劇的に減少させるのに、地下鉄の落書きをなくすること(また、上で引用した「割れた窓」をなくすこと)――極めて些細なことに見える!――が効果的だったというのが、本書の事例の一つだが、これは非常に印象的な事例である。)

この引用文に示された知見は、非常に役立ちそうである。
スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/215-8b56fbba
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)