FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

カッシーラー 『人間 シンボルを操るもの』

 それゆえに、もし我々が、神話的知覚および神話的想像の世界を説明したいと思うならば、我々の認識および真理の理論的理想という観点から、両者の批判を始めてはならない。我々は神話的経験の性質を「直接的な性質たること」としてとらえねばならない。なぜならば、我々がここで必要とするのは、たんなる思想または信念の説明ではなくて、神話的生活の解釈である。神話は教理的信条の体系ではない。それはたんなる心象または表象であるよりも、はるかに行為なのである。このような見解がますます有力となったのは、近代人類学および近代宗教史の確固とした進歩の結果である。歴史的な意味も、心理学的意味でも、儀式が教理に先行するということは、今日一般に承認されているマキシムであろう。(p.173)



カッシーラーの神話に関する知見は、かなり含蓄に富むものが多いが、この箇所は私の関心と比較的近いところを捉えているところの一つ。

神話を行為として規定している。この箇所については、社会的側面については当時の社会科学的な研究の成果に依拠しているだろうが、認識論的な側面について言えば、理論的にはカントの超越論的主観性における構成的な性格から来ているものと推測する。それが(恐らく結果的に)ポイエーシスに繋がっている点に私は着目する。カントの超越論的観念論が主体的な行為の契機、認識作用が行われるシステムの作動を部分的に捉えていると見ることができるからである。




外国語の「精神」を体得したとき、我々はつねに、新しい世界、その外国語独特の知的構造をもつ世界に近づくという印象をもつ。それは知らない土地の探検旅行のようなものであり、このような旅行で得られる最大の収穫は、我々の母国語を新たな観点からみることを学んだ点にある。(p.281)



ある言語の同一性をやや安易に受け入れてしまっている点(★注1)には注意が必要だが、その点を除けばなかなか良いことを言っている。

これは言語に限らず、文化的な現象一般について常に言いうることであろう。多様なものを知ることによって、様々な差異を学び、それを鏡として自らが自明として受け取っているものを捉え直す。

私はよく本を読むし、旅行もするが、その面白さの一つはこうしたところにあるといっても良いと思う。

(★注1)例えば、「ウズベク語」と「ウイグル語(?)」の話者は相互にほとんど意思疎通ができるそうだ。その場合、こうした「自己規定」――こちらはウズベク語であり、あちらはウイグル語である、として規定すること――のもつある種の怪しさが浮かび上がる。






しかし、歴史的事実とは何であるか。あらゆる事実的真理は、理論的真理を含んでいる。我々が事実を語るとき、我々は、直接の感覚素材だけを基礎とはしない。我々は、経験的な、すなわち客観的な事実を考えているのである。この客観性は与えられているものではない。それは常に判断の作用および複雑な過程を含んでいる。・・・(中略)・・・。歴史的知識の第一歩は、観念的な再構成であって、経験的な観察ではない。我々が科学的事実とよぶものは、つねに我々があらかじめ、組織化しておいた科学的な問に対する答である。しかし、歴史家は何に対してこの問をむけ得るであろうか。(p.368-369)



事実の「理論負荷性」の主張である。カッシーラーはこの点についてそれなりに明確な考えを持っていたようだ。本書の解説でも野家啓一氏が別の箇所を引いて次のように述べていることからも、それは明らかだ。

科学の事実はつねに理論的、すなわちシンボル的要素を含んでいる」(132頁)のであり、それは単なる観察的事実ではなく、すでに一種の仮説的事実にほかならない。これは明らかに事実の「理論負荷性」の主張であり、それがN.R.ハンソンの提議に15年を先んじていたことは科学哲学の歴史の上で特筆されてよい。(p.491-492)



解説のこれに続く箇所で野家氏が簡潔かつ的確にカッシーラーのシンボル形式の哲学についてまとめているので、引用しておきたい。

 以上三つの章を概観してきたことからも明らかなように、カッシーラーにとっては、人間から独立した純粋無垢の「生の事実」なるものは存在しない。あらゆる事実はシンボルによって媒介され、シンボル形式によって構成されているのである。これがカッシーラー哲学のアルファにしてオメガにほかならない。その点で彼はあくまでもカント主義者であり、シンボル形式はわれわれの経験を組織化する枠組みという意味でカントの悟性形式、すなわちカテゴリーに相当する。しかし、カントのカテゴリーがわれわれの認識能力にアプリオリに内在する普遍的にして不変的な構造であるのに対し、カッシーラーのシンボル形式は経験に論理的に先立つという意味でアプリオリであるが、それは学習を通じてアポステリオリに獲得されるものであり、しかも固定的なものではなく、歴史的変化を受け入れる可変的で可塑的な構造である。(p.492-493)

スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/205-35bc543f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)