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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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長廣敏雄 『雲岡日記 大戦中の仏教石窟調査』
著者である長廣氏は、大戦中に足掛け7年間、雲崗石窟の調査に携わった。そのときの日記。ある意味、この本は無味乾燥なメモの集積に過ぎない。

しかし、その中には、戦時中の日本社会の様子や日本が占領していた中国東北部などの様子が、当時の人の視点から描き出されている。美術史や考古学の発掘の調査記録であると同時に、この日記は戦時中の記録としての意味もある。本来は前者の目的で購入した本だが、読むと後者の側面が非常に興味深かった。

終戦から62年が経とうとしている中、核兵器保有論者が首相の座に居座るという異常な状態になっているが、そうした中にあって、既に絶版となっている本書の内容を人目に付きうるところにアップすることは無意味ではあるまい。

 悪いことに、日中戦争勃発の年(1937年)に、私が同人の一人であった「世界文化」誌グループの二十数人の同人が、治安維持法という悪法により、一斉検挙された。そのあふりを食って、私も要注意人物として警察のブラックリストに載せられたことを、友人から知らされた。いつ検挙されるか分からない情勢だった。
 したがって水野、長廣のコンビのうち、私は積極的に寄付金依頼などの対社会的行動がとれなくなった。これは出鼻を挫かれたことである。(p.14)



当時の言論状況がどのようなものであったかを垣間見ることができる。共謀罪が成立したら、それはこうした状況を復活させる布石となるだろう。




 皇帝は生き仏だ、という法果の宣言は、首都平城(大同)時代を通じて、ずっと北魏仏教の特色であった。この仏教思想は、南朝仏教とは正反対だった。南朝では「僧侶も国王に敬礼すべし」という国家権力者の強制は、仏教者の側の抵抗にあって実現しなかったからだ。つまり南朝では国家権力が弱かったのだ。ところが異民族国家の北魏では国家権力が圧倒的に強かった。仏教徒は国家権力にたより、また、それを利用した。
 要するに北魏では生き仏の皇帝の権力で仏寺、仏塔が建てられ、僧侶が集められた。仏教は一気に盛んとなったわけだ。(p.22-23)



一つ注意すべきは、「国家権力」の強さについては、他の勢力との相対的な関係として見なければならないということ。北魏の王朝の権力が南朝の王朝の権力より強かったかどうかは別問題である。当たり前のことではあるが、この叙述からはどうしてもこうしたことが連想されがちなので念のためメモ。

それはさておき、私がここを読んで即座に想起したのは、ラテン世界とビザンツ帝国との違いと類似しているということだった。

北魏はビザンツと同じで政治的権力が宗教勢力よりも強力だったために、宗教勢力を従えることができたが、南朝はラテン世界と同じでそれだけの強大な権力が存在しなかったので、宗教勢力が相応の独立性を持ちえた。

中国の経済はどちらかというと南の方が豊かだと思っているが、南北朝の時代にはまだ南はそれほど発展していなかったと思われる。その意味で歴史を通して近代に至るまで常に貧しい地域であり続けたアルプス以北の地域の状況と重なる。

貧しい地域において政治が十分に中央集権化されていない場合、宗教権力にも相応の自立する契機があった、そんな感じだろうか。




昭和十四年八月十七日の日記より。北京から大同に向かう途中、列車が通れない地域を歩いて通ったときの記述。

 北京到着の日から毎日、北京駅へ行き、北京から南口駅まで行き、そこの軍司令部に情況を聞いていた。要するに南口駅から渓谷の情報にある青龍橋駅まで約20キロ(だったと思う)を徒歩によって踏破するしか方法がないことが分かった。その徒歩連絡の軍の許可証はこの日(十七日)やっと手にすることができた。だが南口駅の軍司令部の下士官が言うには、「日没までに青龍橋まで歩行できない場合は、軍の営倉にぶちこむ」と。つまり、この区間は軍の作戦地域なのだ。八達嶺の山々には万里長城がうねうねしているし、どこから中国軍の便衣隊が奇襲して来るかも知れない、という次第のようだった。
 ・・・(中略)・・・
 着剣した、厳しい蒼黒い顔つきの兵隊が十メートルぐらい置きに立っている。両側の岩山から谷にかけては、何百メートルもムカデのように一列に並んだ中国人(徴発された農民かも知れない)が石運びをしていた。青ざめた顔に泥んこの衣服をまとっていた。黙々と突っ立ったまま、石を持った両手だけが動いているのだ。私は背筋がぞっとした。何日間、この強制労働は続くのだろう。占領軍と被占領地の農民。着剣の日本兵は、地獄の獄卒というところだ。(p.39-40)



力によって他人を従わせるのが日常茶飯事になっている状況。好ましいものではない。




昭和14年9月3日

蒙疆聨合自治政府の末端機構としての晋北政庁は、雲岡石仏寺保存計画をたてている。政府ができるまでの雲岡は、軍の管轄下で「石窟を破損するものは、銃殺に処す」などという物騒な制札が石仏寺の門前に厳然と建っていた。それが、政府成立後、軍の背景は依然強力ではあったものの、こうやって、雲岡の保存事業が進められることになった。(p.60)



軍隊なるものは、いつも力だけによって彼らの望む「秩序」を守ろうとする。そんなものは長く続かないのだが。それはともかく、この札もそうした軍隊なるものの姿勢をよく示していると言えよう。




昭和14年9月23日。

 晋北政府計画の雲岡村民の立ち退きは、あと一週間の期限をつけて、今日、村民たちに金を渡している。一戸当たり大体二百円ぐらいだが、調査班要員の農民は、大体いい方で、三百円以上だ。調査班要員の村民青年たちはいろいろとその話をして、多少興奮しているらしい。永年の間、この石窟石像と一体となって生活していたものが、幾百年の慣習を捨てて、去ってゆくのだから、動揺があるのもよく分かる。
 だが今のままの雑然とした石仏寺域では、なんといってもひどすぎる。仏教聖地とは言いにくい。この前庭が広い芝生に取り囲まれて、ほんとの清浄な霊地となる必要があるのだ。(p.70-71)



ここでの著者の立場は、侵略者側の人間が常に陥りがちな傲慢さを孕んでいる。また、考古学などの学術研究の持つ傲慢さがしばしば指摘されるが、まさにその事例でもある。

しかし、確かに石窟を保存する上では農民の家が石窟と完全に隣接しているような状態は望ましいものではなかろう。ここの選択は非常に難しい問題をはらんでいるとも言える。

以前、このブログで引用した本に書いてあった西安の立ち退きの事例(どんな事例かはブログの引用文だけではちょっと不明瞭だが)とも通じるものがあるが、雲崗の事例の方が正当性はあるような気もする。ただ、軍事力を間接的な背景とした上での収用というのは、やや酷に思える。




昭和17年(1942年)

 八月二十日(木曜)晴
 画家福田平八郎氏来る。大連商工会議所会頭の首藤氏といっしょである。
 首藤氏からいろいろと大陸経済の情況を聞く。世界戦争は結局、食糧戦争だという。北シナには物資がどんどん集まる、ということ。満州は北支から石炭や綿花を輸入しながら、その代わりの物資を返せないということ。冀東地区の共匪(共産軍)が蠢動すること。彼らは食糧票を発行していること、などなど。先日から私は、大陸進出に空虚な理念倒れのみを痛感していた。八紘一宇の精神主義に、なにがあるのか。(p.117)



やはり当時の人も同じ思いを感じていたのだと思われる。

右翼や軍国主義者には、因果関係を客観的に把握する方法論がいつも欠けている。だから、政策論を語るときに内容の裏づけを持って語ることが出来ない。半ば必然的に精神論に頼らざるを得なくなる。

安倍晋三が「政策」を全く語れないということは、偶然ではない。政治家になってから14~15年になるのだろうが、彼は政策よりもただただ権力を手中にすることとそれを行使することしか彼は念頭においてこなかったように見える。
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