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アヴェスターにはこう書いている?
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長廣敏雄 『雲岡と龍門――中国の石窟美術――』

 五胡十六国時代の野蛮で狂暴な北族の興亡史のさなかに、仏教は着実に中国の土壌のなかで根をひろげていった。上に述べた訳経の大事業のみならず、もっと実際的・政治的な力を偉大な仏教僧たちはふるった。それを国家の独裁者たちは大いに尊重したのである。(p.22)



雲崗や龍門の石窟も、こうした権力との結びつきが背景にある。仏教がイデオロギー面でどのように政治権力を補佐していたのか、興味があるところだ。キリスト教やイスラームについてはある程度知っているつもりだが、仏教の場合はどうだったのか?




北魏において、太武帝の排仏が446年にあった後、文成帝が452年に仏教復興の詔勅が発布された。

 勅命によって仏教が復興されると、当然、国家の要請による官寺が建立され、僧侶が統率された。宗教長官(道人統とよぶ)となった高僧は師賢であった。師賢はもとインドのカシュミール出身の外国僧、中国に渡っては涼州からきたということは、仏教復興時代の国都の仏教がどんなものかを、暗示している。さきに涼州からの大量移民についてのべたが、それとも関係するだろう。仏教美術においても、涼州系統の勢力、ひいては西域の勢力が否定できないだろう。(p.30)



初期の仏教美術はこうした傾向が強そうだ。私の知的経歴から言って、おそらく見るには、こうしたものからアプローチする方が馴染みやすそうだと思っている。

その意味では、洛陽の龍門石窟ではなく、大同の雲崗石窟に近々訪問することになったのは、半ば偶然とはいえ適切な選択だったかもしれない。




 皇帝が自分を仏像として作れと命令しているわけである。皇帝は生き仏として、現世に降臨したと自他ともに信じるのである。さきにあげた僧法果が、一般僧に命じて、皇帝を仏として礼拝せよとのべたのと同じ思想である。これは北魏仏教が南朝仏教とまったく異なる点である。そして仏像製作についても、この北魏的思想をみのがすことはできないだろう。(p.31)



この、皇帝を生き仏とみなすという教義は、上で私が発した疑問の一部をなす要素だろう。ただ、それが仏教の教義の展開の歴史の中で、どのように位置づけられるのかが私にとっては、ひとつの問題として残る。

北魏と南朝との仏教に対する姿勢の違いは支配の正当性の源泉が南朝には他にも多様にあった、ないしはより強力に訴えうる源泉があったということと関連しているのだろう。北魏にはそれが乏しかったと考えられる。支配層の武力は強力だっただろうが、武力・暴力では恒常的な支配を確立することは不可能だ。武力・暴力はあくまでも最後に残された手段でしかない。



 曇曜五窟はいずれも尊像のための石窟である。したがって、壁面を押しのけるほどの迫力ある大仏を掘り出すのが目的であって、石窟内の空間を建築的に――ちょうど寺院のように――造作することは、考えなかった。この点でバーミアンの35メートル、53メートル大仏石窟と酷似する。そしてインドの石窟寺院、たとえばナーシク石窟、バージヤ石窟などとはまったく異なっている。インドでは僧侶が住むことのできる僧房窟と、礼拝行事をおこなう塔廟窟が主体である。それは岩窟の建築にほかならない。石窟の外壁がすでに建築的な立派なファサードをそなえているのだ。
 曇曜五窟はそうではない。大仏だけを彫れば目的は達したようなものだ。明かり窓や門口は全然建築的意匠を無視している。それはおそらく内部をほったときの、残石を運びだすための排出口であろう。だからこそ、石窟の外観が、ちょうど砲弾で打ちぬいたように殺風景なのである。
 インドの石窟寺院では建築家的企画がありありとみとめられるが、曇曜五窟では彫刻家のみがその力量を発揮しているといってよい。(p.50)



雲崗石窟のうち、最も古いとされる第16窟から第20窟を曇曜五窟という。

私は実物をまだ見ていないが、本書などを読んだ限りでは、規模が大きく、装飾が周囲も含めて少ないという印象を受けている。仏像だけが命であって、それ以外の要素は捨て置かれているという印象がある。

実物を見たらどのように感じるだろうか。




 さて賓陽洞の外壁には石窟入口の左右に、金剛力士像がほってある。・・・(中略)・・・。いわゆる憤怒相で、外敵を追いはらう意気込み十分である。・・・(中略)・・・。
 こういう力の充実した彫像が六世紀初頭を代表するとおもわれる。完全に中国的な造形なのである。西方からの借りものは全然みられぬ。外面的なナチュラリズムもなく、遊戯的な衣文のたわむれもない。(p.143-144)



雲崗の初期の石窟は西方からの影響が極めて強いが、次第に中国の土着的な要素が大きくなっていく。龍門石窟になると西方から来た要素は直接には見られないものまで出てくる。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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